佐藤尚中
日本の医師
佐藤 尚中(さとう たかなか、さとう しょうちゅう、1827年5月3日(文政10年4月8日)- 1882年(明治15年)7月23日)は、幕末から明治初期の蘭方医。幼名を竜太郎、舜海と称し、笠翁と号す。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。下総国小見川(現・千葉県香取市)出身。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年については諸説ある。
略歴
編集- 1827年 小見川藩藩医の山口甫僊の次男として生まれる。
- 1842年(天保13年)、江戸四谷の医者安藤文沢に蘭方医学を学ぶ。文沢の勧めで和田泰然(のち佐藤泰然)の「和田塾」入門。
- 1843年佐藤泰然に同行し佐倉に移り住んだ。
- 1853年(嘉永6年)、佐藤泰然の養嗣子、佐倉藩医となる。この後、偉人となる。
- 1859年(安政6年)、順天堂第二代堂主となる。
- 1860年(万延元年)、長崎で1年余りポンペ・ファン・メーデルフォールトにオランダ医学を学ぶ。
- 1867年(慶応3年)、佐倉藩に「佐倉養生所」開設。
- 1868年(慶応4年)、戊辰戦争のため閉鎖。
- 1869年(明治2年)明治政府の要請により「大学東校(現・東京大学医学部)」に勤め大博士・初代校長となる。
- 1870年(明治3年)、明治天皇の侍医長となる。
- 1872年(明治5年)、佐々木東洋らと共に日本初の私立病院「博愛舎」を設立。
- 1873年(明治6年)、下谷練塀町に順天堂を開院。
- 1875年(明治8年)、私立の「順天堂医院」開設、初代院長。
家族・親族
編集- 妻:サダ(高橋忠三郎の次女)
- 後妻:ナホ(城氏)
- 養嗣子:進(妻・サダの甥)
- 長女:志津(養嗣子・進の妻。女子美術学校長)
- 長男:百太郎(ニューヨークで実業家)
- 次女:藤(三宅艮斎の長男・三宅秀の妻)
- 次男:哲次郎(1860-1929) ‐ 東金町の薬種業大野家の婿養子となり9代目大野伝兵衛を襲名する。大野家は東金を代表する豪商のひとつで、6代目の伝兵衛(秀澄、1750-1825)の代に小児薬「一角丸」を製造販売し巨富を得た。その孫の8代目伝兵衛(秀頴、1830-1876)は東金領主の福島藩 主板倉家の御用金御用達頭取となり、さらに山林を拓いて茶園も経営し、「東嘉園」の名を有栖川宮熾仁親王より賜り、茶の輸出も行なった。11代藩主板倉勝長から名字帯刀を許され、水戸徳川家の出入りも許された。東金に郵便局を設立し、死後は娘婿の哲次郎が受け継いだ。哲次郎は合資会社大野銀行を創立し、千葉県農工銀行の取締役も務めた。[1][2][3][4]
- 養子:舜海(前名大道、旧名岡本道庵。後年、佐倉順天堂主となる。妻は佐藤進の実妹トシ)
- 養子:佐(旧名:井上虎三)
- 三女:楽(佐藤佐の妻)
- 三男:衛(のち母の実家・城氏を継ぐ。米国工学士)
- 四女:梅尾(佐藤進の養女になり、佐藤恒久(旧姓松下)の妻・佐藤清一郎の養母)
- 五女:幸(佐藤進の養女となり、日本鋼管創設者の一人・今泉嘉一郎の妻に)
- 四男:福待(幼名華江(はなえ)。米国写真学士・東京で写真館主)
- 五男:潤家(ますえ)(大滝富三の養子となる。子息は紀雄)
脚注
編集- ^ 大野伝兵衛『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 大野伝兵衛(六代秀澄)(豪商)東金市/東金市デジタル歴史館
- ^ 大野伝兵衛(八代秀頴)(豪商・俳人)東金市/東金市デジタル歴史館
- ^ 大野銀行東金市/東金市デジタル歴史館