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'''牧田 環'''(まきた たまき、[[1871年]][[7月24日]] - [[1943年]][[7月6日]])は、[[日本]]の鉱山[[技術者]]、[[実業家]]、[[教育者]]。
'''牧田 環'''(まきた たまき、[[1871年]][[9月8日]]〈[[明治]]4年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]] - [[1943年]]〈[[昭和]]18年〉[[7月6日]])は、[[日本]]の鉱山[[技術者]]、[[実業家]]、[[教育者]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
1871年(明治4年)、[[大阪府]]に[[士族]]の次男として生まれる。[[1895年]](明治28年)[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|帝国大学工科大学]]採鉱冶金学科を卒業して[[三井鉱山]](現・[[日本コークス工業]])に入社した<ref>『[[人事興信録]]』第4版(1915年1月。ウェブ上の転記情報:{{Cite web |url=https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-9266 |title=牧田 環|publisher=[[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|名古屋大学法学研究科]]|website=『人事興信録』データベース |date= |accessdate=2023-07-17}})</ref>。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、[[三井財閥]]の最高指導者であった[[団琢磨]]の長女を妻に迎えている<ref>{{Cite Kotobank|word=牧田環|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|access-date=2023-07-17}}</ref>。
1871年(明治4年)、[[大阪府]]に[[士族]]の次男として生まれる。[[1895年]](明治28年)[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|帝国大学工科大学]]採鉱冶金学科を卒業して[[三井鉱山]](現・[[日本コークス工業]])に入社した<ref>『[[人事興信録]]』第4版(1915年1月。ウェブ上の転記情報:{{Cite web|和書|url=https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-9266 |title=牧田 環|publisher=[[名古屋大学大学院法学研究科・法学部|名古屋大学法学研究科]]|website=『人事興信録』データベース |date= |accessdate=2023-07-17}})</ref>。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、[[三井財閥]]の最高指導者であった[[団琢磨]]の長女を妻に迎えている<ref>{{Cite Kotobank|word=牧田環|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|access-date=2023-07-17}}</ref>。


20世紀前半、三井鉱山は[[炭鉱]]開発で莫大な利益を上げていたが、団と牧田は石炭を利用した[[有機化学]]事業にも進出した<ref name="mitsuic"/>。[[第一次世界大戦]]後、牧田は人工染料である[[インディゴ]](人工藍)製造に着手。ヒントを得るため[[ドイツ]]に渡り染料工場を訪問するも立入拒否に遭ったことから、わずかな知見と入手可能な文献だけを頼りにインディゴの製造プラントを建設した逸話も残る<ref name="mitsuic"/>。この工場は後に[[三井化学]]の基盤の一つとなった<ref name="mitsuic">{{Cite web |url=https://jp.mitsuichemicals.com/jp/corporate/group/1912_1932.htm |title=石炭化学の始まり |publisher=三井化学 |date= |accessdate=2023-07-17}}</ref>。
20世紀前半、三井鉱山は[[炭鉱]]開発で莫大な利益を上げていたが、団と牧田は石炭を利用した[[有機化学]]事業にも進出した<ref name="mitsuic"/>。[[第一次世界大戦]]後、牧田は人工染料である[[インディゴ]](人工藍)製造に着手。ヒントを得るため[[ドイツ]]に渡り染料工場を訪問するも立入拒否に遭ったことから、わずかな知見と入手可能な文献だけを頼りにインディゴの製造プラントを建設した逸話も残る<ref name="mitsuic"/>。この工場は後に[[三井化学]]の基盤の一つとなった<ref name="mitsuic">{{Cite web|和書|url=https://jp.mitsuichemicals.com/jp/corporate/group/1912_1932.htm |title=石炭化学の始まり |publisher=三井化学 |date= |accessdate=2023-07-17}}</ref>。


三井鉱山会長を務める傍ら、[[1926年]](大正15年)には北樺太石油の[[取締役]]を務める<ref>「創立総会で中里重次を社長に選任」『[[東京朝日新聞]]』1926年(大正15年)6月8日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』[[毎日コミュニケーションズ]]、1994年、本編 p.115)</ref>など、広く財界を通じた活動もおこなった。
三井鉱山会長を務める傍ら、[[1926年]](大正15年)には北樺太石油の[[取締役]]を務める<ref>「創立総会で中里重次を社長に選任」『[[東京朝日新聞]]』1926年(大正15年)6月8日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』[[毎日コミュニケーションズ]]、1994年、本編 p.115)</ref>など、広く財界を通じた活動もおこなった。
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[[1936年]](昭和11年)に三井鉱山会長職を辞任した後は、[[昭和飛行機工業]]社長、[[帝国燃料興業]]総裁に就任した。
[[1936年]](昭和11年)に三井鉱山会長職を辞任した後は、[[昭和飛行機工業]]社長、[[帝国燃料興業]]総裁に就任した。


また、1926年(大正15年)には、教育者であった実兄の牧田宗太郎とともに四條畷高等女学校を設立<ref name="sijon"/>。後の[[学校法人四條畷学園]]の創設者の一人となっている<ref name="sijon">{{Cite web |url=https://www.shijonawate-gakuen.ac.jp/about/ |title=学園について ご挨拶|publisher=四條畷学園 |date=2020年 |accessdate=2023-07-17}}</ref>。
また、1926年(大正15年)には、教育者であった実兄の牧田宗太郎とともに四條畷高等女学校を設立<ref name="sijon"/>。後の[[学校法人四條畷学園]]の創設者の一人となっている<ref name="sijon">{{Cite web|和書|url=https://www.shijonawate-gakuen.ac.jp/about/ |title=学園について ご挨拶|publisher=四條畷学園 |date=2020年 |accessdate=2023-07-17}}</ref>。


== 脚注 ==
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牧田 環(まきた たまき、1871年9月8日明治4年7月24日〉 - 1943年昭和18年〉7月6日)は、日本の鉱山技術者実業家教育者

経歴

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1871年(明治4年)、大阪府士族の次男として生まれる。1895年(明治28年)帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業して三井鉱山(現・日本コークス工業)に入社した[1]。最初は技術者として、後に役員として頭角を現し、三井鉱山社長および会長を務めた。こうした縁で、三井財閥の最高指導者であった団琢磨の長女を妻に迎えている[2]

20世紀前半、三井鉱山は炭鉱開発で莫大な利益を上げていたが、団と牧田は石炭を利用した有機化学事業にも進出した[3]第一次世界大戦後、牧田は人工染料であるインディゴ(人工藍)製造に着手。ヒントを得るためドイツに渡り染料工場を訪問するも立入拒否に遭ったことから、わずかな知見と入手可能な文献だけを頼りにインディゴの製造プラントを建設した逸話も残る[3]。この工場は後に三井化学の基盤の一つとなった[3]

三井鉱山会長を務める傍ら、1926年(大正15年)には北樺太石油の取締役を務める[4]など、広く財界を通じた活動もおこなった。

1936年(昭和11年)に三井鉱山会長職を辞任した後は、昭和飛行機工業社長、帝国燃料興業総裁に就任した。

また、1926年(大正15年)には、教育者であった実兄の牧田宗太郎とともに四條畷高等女学校を設立[5]。後の学校法人四條畷学園の創設者の一人となっている[5]

脚注

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  1. ^ 人事興信録』第4版(1915年1月。ウェブ上の転記情報:牧田 環”. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学法学研究科. 2023年7月17日閲覧。
  2. ^ 牧田環」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E7%89%A7%E7%94%B0%E7%92%B0コトバンクより2023年7月17日閲覧 
  3. ^ a b c 石炭化学の始まり”. 三井化学. 2023年7月17日閲覧。
  4. ^ 「創立総会で中里重次を社長に選任」『東京朝日新聞』1926年(大正15年)6月8日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』毎日コミュニケーションズ、1994年、本編 p.115)
  5. ^ a b 学園について ご挨拶”. 四條畷学園 (2020年). 2023年7月17日閲覧。