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「アルフォンセ・マサンバ=デバ」の版間の差分

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'''アルフォンセ・マサンバ=デバ'''(Alphonse Massemba-Débat、[[1921年]] - [[1977年]][[3月25日]]) は[[コンゴ共和国]]の[[政治家]]。同国[[コンゴ共和国の大統領|大統領]]を務めた。
'''アルフォンセ・マサンバ=デバ'''(Alphonse Massemba-Débat、[[1921年]] - [[1977年]][[3月25日]]) は[[コンゴ共和国]]の[[政治家]]。同国[[コンゴ共和国の大統領|大統領]]を務めた。


== 8月革命(1963年)による政権誕生==
== 8月革命(1963年)による政権誕生==
コンゴ共和国は独立後、[[フルベール・ユールー]]政権の下で南部重視・北部の冷遇が続き、政権は腐敗した。これに対し、北部人を主体として反政権デモが拡大し、[[1963年]]8月、軍部もユールーを見放して政権は崩壊(コンゴ8月革命)。ユールー辞任後、ユールー政権の元閣僚であるマサンバ=デバが臨時政府の首班となり、大統領に選出された([[1963年]]12月19日)。
コンゴ共和国は独立後、[[フルベール・ユールー]]政権の下で南部重視・北部の冷遇が続き、政権は腐敗した。これに対し、北部人を主体として反政権デモが拡大し、[[1963年]]8月、軍部もユールーを見放して政権は崩壊(コンゴ8月革命)。ユールー辞任後、ユールー政権の元閣僚であるマサンバ=デバが臨時政府の首班となり、大統領に選出された([[1963年]]12月19日)<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、107ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>


== 穏健路線の破綻と失脚 ==
== 穏健路線の破綻と失脚 ==
マサンバ=デバ政権は穏健な社会主義を掲げ、反フランス・反資本主義路線を採った。共産主義者や左派民兵組織は当初、マサンバ=デバを支える立場にあった。
マサンバ=デバ政権は穏健な社会主義を掲げ、反フランス・反資本主義路線を採った。共産主義者や左派民兵組織は当初、マサンバ=デバを支える立場にあった。


マサンバ=デバは「革命国民運動(MNR)」を結成し([[1964年]]1月)、一党体制を築いた。しかし、MNRの若年層の一部はキューバ支援により民兵を組織し、過激化した。このことはマサンバ=デバ政権の支持者に亀裂をもたらし、民兵の代表アンブローズ・ヌマザレイ首相(任1966-1968)は大統領との対立を激化させた。マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任し([[1968年]]1月)、左派からの攻撃を受ける一方、軍部の[[マリアン・ングアビ]][[大尉]]とも対立を深めて孤立化した。
マサンバ=デバは「革命国民運動(MNR)」を結成し([[1964年]]1月)、一党体制を築いた。しかし、MNRの若年層の一部はキューバ支援により民兵を組織し、過激化した。このことはマサンバ=デバ政権の支持者に亀裂をもたらし、民兵の代表アンブローズ・ヌマザレイ首相(任1966-1968)は大統領との対立を激化させた。マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任し([[1968年]]1月)、左派からの攻撃を受ける一方、軍部の[[マリアン・ングアビ]][[大尉]]とも対立を深めて孤立化した<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、109ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>


1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕するが、逆に兵士の反乱で釈放を強要され、ングアビが実権を掌握した。マサンバ=デバは大統領を辞任した(1968年9月4日)。
1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕するが、逆に兵士の反乱で釈放を強要され、ングアビが実権を掌握した。マサンバ=デバは大統領を辞任した(1968年9月4日)<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、110-111ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>


ングアビ暗殺事件(1977年3月)の際、マサンバ=デバは暗殺への関与を疑われ、処刑された。
ングアビ暗殺事件(1977年3月)の際、マサンバ=デバは暗殺への関与を疑われ、処刑された<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、206-207ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>


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2023年9月21日 (木) 23:38時点における最新版

Alphonse Massamba-Débat

アルフォンセ・マサンバ=デバ(Alphonse Massemba-Débat、1921年 - 1977年3月25日) は、コンゴ共和国政治家。同国大統領を務めた。

8月革命(1963年)による政権誕生

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コンゴ共和国は独立後、フルベール・ユールー政権の下で南部重視・北部の冷遇が続き、政権は腐敗した。これに対し、北部人を主体として反政権デモが拡大し、1963年8月、軍部もユールーを見放して政権は崩壊(コンゴ8月革命)。ユールー辞任後、ユールー政権の元閣僚であるマサンバ=デバが臨時政府の首班となり、大統領に選出された(1963年12月19日)[1]

穏健路線の破綻と失脚

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マサンバ=デバ政権は穏健な社会主義を掲げ、反フランス・反資本主義路線を採った。共産主義者や左派民兵組織は当初、マサンバ=デバを支える立場にあった。

マサンバ=デバは「革命国民運動(MNR)」を結成し(1964年1月)、一党体制を築いた。しかし、MNRの若年層の一部はキューバ支援により民兵を組織し、過激化した。このことはマサンバ=デバ政権の支持者に亀裂をもたらし、民兵の代表アンブローズ・ヌマザレイ首相(任1966-1968)は大統領との対立を激化させた。マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任し(1968年1月)、左派からの攻撃を受ける一方、軍部のマリアン・ングアビ大尉とも対立を深めて孤立化した[2]

1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕するが、逆に兵士の反乱で釈放を強要され、ングアビが実権を掌握した。マサンバ=デバは大統領を辞任した(1968年9月4日)[3]

ングアビ暗殺事件(1977年3月)の際、マサンバ=デバは暗殺への関与を疑われ、処刑された[4]

脚注

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  1. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、107ページ ISBN 4-7947-0523-9
  2. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、109ページ ISBN 4-7947-0523-9
  3. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、110-111ページ ISBN 4-7947-0523-9
  4. ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、206-207ページ ISBN 4-7947-0523-9