「アルフォンセ・マサンバ=デバ」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Ptbotgourou (会話 | 投稿記録) m r2.7.2) (ロボットによる: カテゴリ変更 en:Alphonse Massemba-Débat→en:Alphonse Massamba-Débat |
Family27390 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
||
(7人の利用者による、間の7版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
⚫ | |||
'''アルフォンセ・マサンバ=デバ'''(Alphonse Massemba-Débat、[[1921年]] - [[1977年]][[3月25日]]) は[[コンゴ共和国]]の[[政治家]]。同国[[コンゴ共和国の大統領|大統領]]を務めた。 |
'''アルフォンセ・マサンバ=デバ'''(Alphonse Massemba-Débat、[[1921年]] - [[1977年]][[3月25日]]) は、[[コンゴ共和国]]の[[政治家]]。同国[[コンゴ共和国の大統領|大統領]]を務めた。 |
||
== 8月革命(1963年)による政権誕生== |
== 8月革命(1963年)による政権誕生== |
||
コンゴ共和国は独立後、[[フルベール・ユールー]]政権の下で南部重視・北部の冷遇が続き、政権は腐敗した。これに対し、北部人を主体として反政権デモが拡大し、[[1963年]]8月、軍部もユールーを見放して政権は崩壊(コンゴ8月革命)。ユールー辞任後、ユールー政権の元閣僚であるマサンバ=デバが臨時政府の首班となり、大統領に選出された([[1963年]]12月19日)。 |
コンゴ共和国は独立後、[[フルベール・ユールー]]政権の下で南部重視・北部の冷遇が続き、政権は腐敗した。これに対し、北部人を主体として反政権デモが拡大し、[[1963年]]8月、軍部もユールーを見放して政権は崩壊(コンゴ8月革命)。ユールー辞任後、ユールー政権の元閣僚であるマサンバ=デバが臨時政府の首班となり、大統領に選出された([[1963年]]12月19日)<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、107ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>。 |
||
== 穏健路線の破綻と失脚 == |
== 穏健路線の破綻と失脚 == |
||
マサンバ=デバ政権は穏健な社会主義を掲げ、反フランス・反資本主義路線を採った。共産主義者や左派民兵組織は当初、マサンバ=デバを支える立場にあった。 |
マサンバ=デバ政権は穏健な社会主義を掲げ、反フランス・反資本主義路線を採った。共産主義者や左派民兵組織は当初、マサンバ=デバを支える立場にあった。 |
||
マサンバ=デバは「革命国民運動(MNR)」を結成し([[1964年]]1月)、一党体制を築いた。しかし、MNRの若年層の一部はキューバ支援により民兵を組織し、過激化した。このことはマサンバ=デバ政権の支持者に亀裂をもたらし、民兵の代表アンブローズ・ヌマザレイ首相(任1966-1968)は大統領との対立を激化させた。マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任し([[1968年]]1月)、左派からの攻撃を受ける一方、軍部の[[マリアン・ングアビ]][[大尉]]とも対立を深めて孤立化した。 |
マサンバ=デバは「革命国民運動(MNR)」を結成し([[1964年]]1月)、一党体制を築いた。しかし、MNRの若年層の一部はキューバ支援により民兵を組織し、過激化した。このことはマサンバ=デバ政権の支持者に亀裂をもたらし、民兵の代表アンブローズ・ヌマザレイ首相(任1966-1968)は大統領との対立を激化させた。マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任し([[1968年]]1月)、左派からの攻撃を受ける一方、軍部の[[マリアン・ングアビ]][[大尉]]とも対立を深めて孤立化した<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、109ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>。 |
||
1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕するが、逆に兵士の反乱で釈放を強要され、ングアビが実権を掌握した。マサンバ=デバは大統領を辞任した(1968年9月4日)。 |
1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕するが、逆に兵士の反乱で釈放を強要され、ングアビが実権を掌握した。マサンバ=デバは大統領を辞任した(1968年9月4日)<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、110-111ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>。 |
||
ングアビ暗殺事件(1977年3月)の際、マサンバ=デバは暗殺への関与を疑われ、処刑された。 |
ングアビ暗殺事件(1977年3月)の際、マサンバ=デバは暗殺への関与を疑われ、処刑された<ref>片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」[[叢文社]] 2005年、206-207ページ ISBN 4-7947-0523-9</ref>。 |
||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:まさんは ては あるふおんせ}} |
{{DEFAULTSORT:まさんは ては あるふおんせ}} |
||
[[Category:コンゴ共和国の |
[[Category:コンゴ共和国の大統領]] |
||
[[Category:コンゴ共和国の首相]] |
|||
[[Category:刑死した人物]] |
|||
[[Category:1921年生]] |
[[Category:1921年生]] |
||
[[Category:1977年没]] |
[[Category:1977年没]] |
||
⚫ | |||
[[de:Alphonse Massemba-Débat]] |
|||
[[en:Alphonse Massamba-Débat]] |
|||
[[fi:Alphonse Massamba-Débat]] |
|||
[[fr:Alphonse Massamba-Débat]] |
|||
[[ka:ალფონს მასემბა-დება]] |
|||
[[la:Alphonsus Massamba-Débat]] |
|||
[[nl:Alphonse Massamba-Débat]] |
|||
[[no:Alphonse Massemba-Débat]] |
|||
[[pl:Alphonse Massamba-Débat]] |
2023年9月21日 (木) 23:38時点における最新版
アルフォンセ・マサンバ=デバ(Alphonse Massemba-Débat、1921年 - 1977年3月25日) は、コンゴ共和国の政治家。同国大統領を務めた。
8月革命(1963年)による政権誕生
[編集]コンゴ共和国は独立後、フルベール・ユールー政権の下で南部重視・北部の冷遇が続き、政権は腐敗した。これに対し、北部人を主体として反政権デモが拡大し、1963年8月、軍部もユールーを見放して政権は崩壊(コンゴ8月革命)。ユールー辞任後、ユールー政権の元閣僚であるマサンバ=デバが臨時政府の首班となり、大統領に選出された(1963年12月19日)[1]。
穏健路線の破綻と失脚
[編集]マサンバ=デバ政権は穏健な社会主義を掲げ、反フランス・反資本主義路線を採った。共産主義者や左派民兵組織は当初、マサンバ=デバを支える立場にあった。
マサンバ=デバは「革命国民運動(MNR)」を結成し(1964年1月)、一党体制を築いた。しかし、MNRの若年層の一部はキューバ支援により民兵を組織し、過激化した。このことはマサンバ=デバ政権の支持者に亀裂をもたらし、民兵の代表アンブローズ・ヌマザレイ首相(任1966-1968)は大統領との対立を激化させた。マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任し(1968年1月)、左派からの攻撃を受ける一方、軍部のマリアン・ングアビ大尉とも対立を深めて孤立化した[2]。
1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕するが、逆に兵士の反乱で釈放を強要され、ングアビが実権を掌握した。マサンバ=デバは大統領を辞任した(1968年9月4日)[3]。
ングアビ暗殺事件(1977年3月)の際、マサンバ=デバは暗殺への関与を疑われ、処刑された[4]。
脚注
[編集]- ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、107ページ ISBN 4-7947-0523-9
- ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、109ページ ISBN 4-7947-0523-9
- ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、110-111ページ ISBN 4-7947-0523-9
- ^ 片山正人「現代アフリカ・クーデター全史」叢文社 2005年、206-207ページ ISBN 4-7947-0523-9