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'''張 達'''
'''張 達'''(ちょう たつ、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]に[[蜀|蜀漢]]に仕えた人物。蜀漢の[[武将]][[張飛]]の配下。


*[[三国時代 (中国)|三国時代]]、蜀(蜀漢)の[[張飛]]に仕えた人物。張飛伝に記録がある。
[[皇帝]][[劉備]]が[[関羽]]の仇[[孫権]]を討つ為に[[呉 (三国)|呉]]攻めを決した、同僚の[[范彊]]と共に張飛を[[暗殺]]し、その首とともに呉へと出奔した。[[正史]]『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に記録されている事跡はこれだけである。
*三国時代、[[魏 (三国)|魏]]の[[曹爽]]に仕えた人物。材官校尉。[[王観]]伝に記録がある。


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『[[三国志演義]]』では、呉への出兵を前に、張飛同僚の[[范彊]]兵力不足進言した。折り悪しくも張飛は酒に酔っていたので、張達は棒で叩きつけられた。それを根に持った張達、范彊は張飛の寝首を掻き、その首とともに呉へと下った。その後[[夷陵の戦い]]の最中呉から陣へと張飛の首とともに送還され、張飛の息子[[張苞]]に斬られた。

'''張 達'''(ちょう たつ、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]に[[蜀]](蜀漢)に仕えた人物。蜀漢の[[武将]][[張飛]]の配下。

[[皇帝]]に即位した[[劉備]]が[[関羽]]の仇[[孫権]]を討つ為に[[呉 (三国)|呉]]攻めを決、車騎将軍である張飛は一万の兵を率いて劉備の東征に合流することになってい。そのとき、同僚の[[范彊]]と共に張飛を[[暗殺]]し、その首とともに呉へと出奔した。[[正史]]『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に記録されている事跡はこれだけである。

『[[三国志演義]]』では、呉への出兵を前に、張飛同僚の范彊と張達命じて短期間で白装束の装備用意するよう命令した。これは無理な注文であり、范彊と張達は延期を願い出たが、折り悪しくも張飛は酒に酔っていたので、棒で叩きつけられた。それを根に持った張達、范彊は張飛の寝首を掻き、その首とともに呉へと下った。その後[[夷陵の戦い]]で、当初優勢であった蜀軍に対し、呉からの和睦の手土産して張飛の首とともに身柄が送還され、劉備の命令で張飛の息子[[張苞]]に斬られた。


[[Category:三国志の登場人物|ちよう たつ]]
[[Category:三国志の登場人物|ちよう たつ]]

2009年7月7日 (火) 14:15時点における版

張 達

  • 三国時代、蜀(蜀漢)の張飛に仕えた人物。張飛伝に記録がある。
  • 三国時代、曹爽に仕えた人物。材官校尉。王観伝に記録がある。

張 達(ちょう たつ、生没年不詳)は、中国三国時代(蜀漢)に仕えた人物。蜀漢の武将張飛の配下。

蜀の皇帝に即位した劉備関羽の仇孫権を討つ為に攻めを決定し、車騎将軍である張飛は一万の兵を率いて劉備の東征に合流することになっていた。そのとき、同僚の范彊と共に張飛を暗殺し、その首とともに呉へと出奔した。正史三国志』に記録されている事跡はこれだけである。

三国志演義』では、呉への出兵を前に、張飛は同僚の范彊と張達に命じて短期間で白装束の装備を用意するよう命令した。これは無理な注文であり、范彊と張達は延期を願い出たが、折り悪しくも張飛は酒に酔っていたので、棒で叩きつけられた。それを根に持った張達、范彊は張飛の寝首を掻き、その首とともに呉へと下った。その後の夷陵の戦いで、当初優勢であった蜀軍に対し、呉からの和睦の手土産として張飛の首とともに身柄が送還され、劉備の命令で張飛の息子張苞に斬られた。