紀元前383年
表示
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
---|---|
十年紀 |
前390年代 前380年代 前370年代 前360年代 前350年代 |
年 |
前386年 前385年 前384年 紀元前383年 前382年 前381年 前380年 |
紀元前383年(きげんぜん383ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ポプリコラ、カピトリヌス、ルフス、フラウウス、マメルキヌス、トレボニウスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元371年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前383年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]ギリシア
[編集]- マケドニア王アミュンタス3世がカルキディア同盟 (Chalkidian League) と一時的な連合を結んだ。ギリシアを群雄割拠のままにしておきたいスパルタは、遠征軍を北へ派遣し、マケドニアの東に位置する、カルキディケー半島(現在のハルキディキ県周辺)の諸都市の連邦国家であった、カルキディア同盟に介入した。
- スパルタの指揮官ポイビダスは、進軍のためにボイオーティアを通りかかったところで、テーバイの内紛に乗じて軍勢とともに市内に入った。ひとたび市内に入ると、スパルタ勢はテーバイの城塞であるカドメア (Cadmea) を占拠し、反スパルタ派の市民を町から追い出した。テーバイの政権は、親スパルタ派が握り、カドメアを拠点としたスパルタ守備隊がこれを背後で支えた。テーバイの指導者だった者たちの多くが、亡命に追い込まれた。エパメイノンダスは、反スパルタ派と繋がっていたものの、追放は免れた。
中国
[編集]天文学
[編集]宗教
[編集]- シシュナーガ朝カーラーショーカ王の呼びかけにより、毘舎離(現在のインド東部ビハール州ヴァイシャーリー県)で、第2回の「三蔵の結集」(Second Buddhist council) が行なわれた。この結集は、根本分裂の契機となった。(年代には異説がある)
誕生
[編集]→「Category:紀元前383年生」も参照
死去
[編集]→「Category:紀元前383年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典