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エチオピア内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エチオピア内戦
アフリカの角の紛争冷戦

エチオピア内戦の軍事的衝突
1974年9月12日1991年6月4日
(16年8ヶ月3週2日間)
場所エチオピアエリトリア
結果

最終的にエリトリア人民解放戦線英語版ティグレ人民解放戦線の勝利

領土の
変化
エリトリア独立、エチオピアは内陸国
衝突した勢力

エチオピアの旗 エチオピア帝国
(1975年8月28日まで)
 エチオピア人民革命民主戦線 (1989年結成)

エチオピア人民革命党英語版
全エチオピア社会主義運動英語版(1977年-)
エチオピア民主連合英語版
オロモ解放戦線英語版
西ソマリ解放戦線英語版
アファル解放戦線英語版
シダマ解放戦線英語版(1978年–1984年)[1]
オガデン民族解放戦線[2]
エリトリア分離独立勢力:

後方支援
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[3]
ソマリアの旗 ソマリア[4]

エチオピアの旗 社会主義エチオピア(デルグ英語版) (1974年–1987年)
エチオピア人民民主共和国 (1987年–1991年)
全エチオピア社会主義運動英語版 (-1977年)

後方支援
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦[5][6][7] (1977–1990)
 キューバ
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗 リビア[8] (1985–1991)
イスラエルの旗 イスラエル[9] (from 1990)
指揮官
ハイレ・セラシエ1世 
(エチオピア皇帝)
メレス・ゼナウィ
(Leader of EPRDF and TPLF)
Elemo Qiltu英語版 
Berhane Meskel Reda[10]
イサイアス・アフェウェルキ
モハメド・シアド・バーレ
ホスニー・ムバーラク
メンギスツ・ハイレ・マリアム
(最高指揮官)
タスファレ・ゲブレ・キダン英語版
戦力
/ 141,000人 (1991年)
30,000人 (1991年)[7]
25,000人 (1977年)[7]
15,000人 (1977年)[7]
/
230,000人 (1991年)
被害者数
~400,000–579,000 人が殺害[11][12][13]
~1,200,000人が餓死 (エチオピア飢饉英語版[11][12][14])

エチオピア内戦(エチオピアないせん)は、1974年9月から1991年6月にかけてエチオピアエリトリアでの共産主義を掲げるエチオピア人民民主共和国政府と国内の反政府勢力の対立による内戦である。

エチオピア暫定軍事行政評議会(通称デルグ英語版)は1974年9月12日クーデターで皇帝ハイレ・セラシエ1世エチオピア帝国を廃し、マルクス・レーニン主義を掲げる軍事暫定政府を樹立した(エチオピア革命)。 この内戦では以前より国内で起こっていたエリトリア独立戦争でのエリトリア分離主義者に加え、共産主義者から反共主義者といった様々な政治組織や各民族の解放戦線など民族組織が、ソ連の支援を受けたデルグに対し、武力によって抵抗した。デルグはこれらの反乱軍を軍事的な作戦や赤色テロ英語版によって制圧していた。 1980年代中頃までにはエチオピア飢饉英語版や経済の衰退、デルグ政権の失策による国内の荒廃によって、反乱軍を支持する民衆が増加した。デルグは1987年に解散し、エチオピア労働者党によるエチオピア人民民主共和国を建国する。しかし、同国を支援していたソビエト連邦が支援を打ち切りはじめ、1980年代後半には政府軍が反乱軍に敗北を重ねるようになった。1991年5月にエチオピア人民民主共和国がエリトリア独立戦争で敗北し、メンギスツ・ハイレ・マリアム大統領は国外逃亡する。そして、1991年6月4日にエチオピア人民革命民主戦線が首都アディスアベバに進駐して内戦は終結した。 エチオピア人民民主共和国は解散し、ティグレ人民解放戦線主導のエチオピア暫定政府が樹立されることとなった[15]

エチオピア内戦では少なくとも140万人が死亡したが、戦闘や暴力で死亡したのは40万人にとどまり、100万人以上が戦争に伴う飢饉によって餓死した。

脚注

[編集]
  1. ^ De Waal, Alexander (1991). Evil Days: Thirty Years of War and Famine in Ethiopia. Human Rights Watch. p. 82. ISBN 9781564320384. https://www.google.com/books/edition/Evil_Days/RcVFXUwraxsC?hl=en&gbpv=1 
  2. ^ Ethiopia: Crackdown in East Punishes Civilians (Human Rights Watch, 4-7-2007)
  3. ^ “Ethiopia a Forgotten War Rages On”. Time. (1985年12月23日). オリジナルの16 April 2009時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090416060448/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,960451,00.html 2007年9月6日閲覧。 
  4. ^ Spencer C. Tucker, A Global Chronology of Conflict: From the Ancient World to the Modern Middle East, 2009. page 2402
  5. ^ New York Times
  6. ^ Der Spiegel
  7. ^ a b c d https://web.archive.org/web/20081117005655/http://www.shaebia.org/artman/publish/article_5299.shtml
  8. ^ [1]
  9. ^ “Ethiopia-Israel”. country-data.com. http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-4541.html 2014年10月26日閲覧。 
  10. ^ Kiflu Tadesse, The Generation (Red Sea Press, 1993), pp. 101–102
  11. ^ a b A Victory Tempered By Sorrow, Carlos Sanchez, Washington Post, May 26, 1991
  12. ^ a b Mengistu Leaves Ethiopia in Shambles, Neil Henry, Washington Post, May 22, 1991
  13. ^ Fifty Years of Violent War Deaths from Vietnam to Bosnia. Ziad Obermeyer, British Medical Journal (2008)
  14. ^ Knives Are Out For A Bloodstained Ruler, Louis Rapoport, Sydney Morning Herald (from The New Republic) April 28, 1990.
  15. ^ Valentino, Benjamin A. (2004). Final Solutions: Mass Killing and Genocide in the Twentieth Century. Ithaca: Cornell University Press. p. 196. ISBN 0-8014-3965-5 

関連項目

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