フセヴォロド・プドフキン
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フセヴォロド・プドフキン Всеволод Илларионович Пудовкин | |
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生年月日 | 1893年2月16日 |
没年月日 | 1953年6月20日(60歳没) |
出生地 | ロシア帝国、ペンザ |
死没地 |
ソビエト連邦 ラトビア・ソビエト社会主義共和国、リガ |
職業 | 映画監督、俳優 |
ジャンル | 映画 |
フセヴォロド・イラリオーノヴィチ・プドフキン(ロシア語: Всеволод Илларионович Пудовкин, 英語: Vsevolod Illarianovich Pudovkin, 1893年2月16日 - 1953年6月20日)は、ソビエト連邦の映画監督、俳優である。セルゲイ・エイゼンシュテイン、アレクサンドル・ドヴジェンコと並び、創成期のソ連映画界で活躍した巨匠である。主に無声映画時代において代表作を発表している。
経歴
[編集]ロシア・ボルガ地方ペンザ生まれ。4歳の頃にモスクワに移り、モスクワ大学では物理の勉強をする。卒業後は化学者として工場に就職するが、D・W・グリフィスの『イントレランス』を見て感激し[要出典]、1919年に国立映画専門学校に第1期生として就学し、映画監督のレフ・クレショフの下につく。
1925年、俳優や助監督を経て、短編喜劇『チェス狂』で監督デビュー。1926年にはゴーリキー原作の『母』を発表、卓越したモンタージュ手法で描いた本作によって一躍世界にその名を知らしめた。1929年には、俳優としてフョードル・オツェプ監督の『生ける屍』に主演もしている。
セルゲイ・エイゼンシュテインが、キャストにあえて素人を起用したのとは対照的に、プドフキンは演技性を重視し、プロの俳優を配役し続けた。
1941年にスターリン賞受章。大祖国戦争時は戦争映画の撮影を手掛ける。終戦後も晩年まで映画の撮影を続けた。
フィルモグラフィー
[編集]映画
[編集]- 飢え、飢え、飢え Голод… голод… голод… (1921年) - 監督
- チェス狂 Шахматная горячка (1925年) - 監督
- Механика головного мозга (1926年) - 監督
- 母 Мать (1926年)[注釈 1] - 監督
- 聖ペテルブルグの最後 Конец Санкт-Петербурга (1927年) - 監督
- アジアの嵐 Потомок Чингис-Хана (1928年)[注釈 2] - 監督
- 生ける屍 Живой труп (1929年) - 出演
- Простой случай (1932年) - 監督
- Дезертир (1933年) - 監督
- Победа (1938年) - 監督
- ミーニンとポジャルスキー Минин и Пожарский (1938年) - 監督
- Кино за XX лет (1940年) - 監督
- Боевой киносборник № 6 (1941年) - 監督
- Суворов (1941年) - 監督
- Убийцы выходят на дорогу (1942年) - 監督
- 祖国の名において Во имя Родины (1943年) - 監督・脚本
- Адмирал Нахимов (1946年) - 監督
- 三つの邂逅 Три встречи (1948年) - 監督
- Жуковский (1950年) - 監督
- Возвращение Василия Бортникова (1952年) - 監督
著書
[編集]- Film Technique
- Film Acting
注釈
[編集]- ^ マクシム・ゴーリキーの長編小説。同時代の画家ユーリイ・アンネンコフの意見ではゴーリキーを原作とした映画では最も成功したものだという[1]。
- ^ 評論家の花田清輝は『アジアの嵐』についてエイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』と並べて初期ソヴィエト映画の傑作と評価した[2]。