坂元八郎太
坂元 八郎太 | |
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生誕 |
1854年1月29日 薩摩国 |
死没 |
1894年9月17日(40歳没) 黄海 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1877年 - 1894年 |
最終階級 | 海軍少佐 |
墓所 | 佐世保東山旧海軍墓地 |
坂元 八郎太(さかもと はちろうた[1] / さかもと はちろうだ[2][3]、1854年1月29日(嘉永7年1月1日) - 1894年(明治27年)9月17日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。
経歴
[編集]鹿児島県出身。坂元八郎左衛門の長男として生まれる。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮に入学する。1877年(明治10年)3月から9月まで西南戦争に出征し、功を立てて少尉補に任ぜられ、また、勲六等を叙された[2]。1878年(明治11年)8月、海軍兵学校(5期)を卒業し「筑波艦」乗組となる。1880年(明治13年)8月、海軍少尉任官。1882年(明治15年)11月、「摂津艦」乗組となり、1883年(明治16年)1月、兼海兵勤務。同年2月、海軍中尉に昇進し従七位に叙された[2]。
1884年(明治17年)12月、「天龍艦」分隊長に就任し、1885年(明治18年)9月から1886年(明治19年)6月までイギリスに出張し、1885年11月、「浪速」分隊長に発令され「浪速」を日本に回航した。翌年4月、海軍大尉に進級。1889年(明治22年)4月にはウラジオストクに出張し、1890年(明治23年)3月、ロシア艦乗組となる。同年10月、海軍少佐に昇進、翌月に帰国した。
1891年(明治24年)1月よりロシア帝国公使館附武官としてサンクトペテルブルクに赴任し、海軍軍事や航海術などを究めた[2]。1893年(明治26年)6月、「吉野」副長となり、翌年3月までイギリスに出張し「吉野」を日本に回航する。1894年(明治27年)5月、「赤城」艦長に就任し日清戦争に出征する。9月17日、黄海海戦に参戦し、軍令部長樺山資紀の座乗する輸送船「西京丸」を、清の6隻の艦隊から集中砲火をうけながらもブリッジから降りて指揮を執って守り抜いたが[2]、坂元は戦死し[2]航海長佐藤鉄太郎も負傷、「赤城」も大損害を受けた。
逸話
[編集]- 黄海海戦での奮戦振りを元に「坂元少佐(赤城の奮戦)」という軍歌が作られた。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ “坂元, 八郎太, 1854-1894”. 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス. 国立国会図書館. 2019年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f 牛台山人「海軍少佐従六位勲四等 坂元八郎太君」『日清戦争軍人名誉忠死列伝』尚古堂(ほか)、1894年11月、46-53頁。doi:10.11501/773984。全国書誌番号:40014249 。
- ^ “坂元八郎太 さかもと-はちろうだ”, デジタル版 日本人名大辞典+Plus, 講談社, (2015-9)
- ^ 『官報』第929号「叙任」1886年8月5日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第4598号「叙任及辞令」1898年10月26日。
- ^ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
- ^ 『官報』第3731号「告示」1895年12月4日。
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]ウィキメディア・コモンズには、坂元八郎太に関するカテゴリがあります。
- 海軍少佐従六位勲四等・坂元八郎太之墓 - 佐世保海軍墓地保存会