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大阪日本民藝館

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大阪日本民藝館
The Japan folk crafts museum, Osaka
2008年11月撮影 地図
施設情報
前身 日本民芸館
専門分野 工芸品
収蔵作品数 1,627点[1]
管理運営 公益財団法人 大阪日本民芸館
建物設計 大林組[2]
延床面積 2,285.10m2[3]
開館 1972年(昭和47年)
所在地 565-0826
大阪府吹田市千里万博公園10-5
位置 北緯34度48分44.2秒 東経135度32分00.4秒 / 北緯34.812278度 東経135.533444度 / 34.812278; 135.533444座標: 北緯34度48分44.2秒 東経135度32分00.4秒 / 北緯34.812278度 東経135.533444度 / 34.812278; 135.533444
外部リンク www.mingeikan-osaka.or.jp ウィキデータを編集
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大阪日本民藝館(おおさかにほんみんげいかん)は、大阪府吹田市万博記念公園内にある民芸品中心の美術館[4]

概要

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1970年3月から9月にかけて開催された日本万国博覧会に際し、大原総一郎らの呼びかけで関西企業17社が万博日本民芸館出展協議会[5]を設立した後に、1967年9月日本民藝協会が「暮しの美」をテーマに「民藝の美」を紹介する形で出展したパビリオン(日本民芸館)として設立を決定[注釈 1]し、1968年12月に着工され[8]、万博の年の3月6日に開催に先駆けて大林組によって竣工・開館式が行われた。パビリオンの館長には、万博開催前の1968年7月に没した大原総一郎の後を引き継いだ弘世現が就任(名誉館長は濱田庄司)[9]。開催時は第1展示室に全国各地の古い民芸品、第2・3展示室に伝統技法を継承した新作民芸品、第4展示室に民芸品の工芸の本質に即した個人作家の新作を展示し展示室内の陳列ケース・椅子・電話台・灰皿などの備品も民芸調のものを用いた[3]

万博終了後は建物は大阪府に寄贈され[10]、その後万博記念協会に無償譲渡された。そして、1971年3月26日大阪府教育委員会から工芸館として設立許可を受け、1972年3月15日に万博開催2周年を受ける形で財団法人大阪日本民藝館として新装開館。初代館長は濱田庄司[11]、二代目館長は柳宗理(2011年3月末に退任)で、以後の館長はなく日本民藝館の提携による理事・評議員での運営である。

万博公園の文化ゾーンにあり、平和のバラ園を挟んで日本庭園国立民族学博物館に隣接している。収蔵品は陶磁器や木漆工品、染織品など約6千点[12][13]。毎年春(3月から7月)と秋(9月から12月)に特別展を企画している[13]。常設展には濱田庄司や河井寛次郎の陶器が展示されている[14]

日本万国博覧会以来パビリオンとしてのテーマを保持して運営され続けられている唯一の施設ともいわれている[注釈 2]

アクセス

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エピソード

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  • 万博当時の第四展示室の壁に展示された棟方志功による最大作(2.4×13.5メートル)である板画「大世界の柵『乾』ー神々より人類へー」[17]が、話題になった。
  • 万博当時の展示ケースは松本民藝家具(当時池田三四郎社長)、受付や案内係の女性の制服デザインは柳悦孝が手がけた。
  • 三宅忠一日本民芸協団日本工芸館に対して、日本民藝協会はあくまで関西で最初の民芸館は大阪日本民藝館としている。(1928年大礼記念国産振興東京博覧会での日本民藝パビリオンを山本為三郎らによって大阪に移された三國荘(みくにそう)を最初ともいい、その頃はまだその現存が確認できていなかった。)
  • 大阪万博に際しての日本民藝館の民芸品などの出展に関する主な趣旨は、柳宗悦らの主張する「知る前にまず見よ」という言葉を中心に民芸に対する認識を改めて意義深く反省することと名誉館長の濱田庄司は述べている。
  • 1968年神奈川県立博物館における日本民芸館展(日本民藝協会第22回全国大会)での、民芸展示を手本として鈴木繁男を中心に万博展示がされたと初代館長の濱田庄司は発言している。
  • 工事に際しては、陳列品の湿気管理等に注意を払い、窓回りなどは実物大模型を作成して検証された。
  • これまでの民藝館は、主に古民家などの和風建築を模して民家の中に陳列品がテーマごとに自然に置かれている展示にしていたのに対し、和風様式を少し残しつつも、いわゆるホワイトキューブ(英語版)様式の陳列品展示にした現代建築[18]にした民藝館としては初めての試みをしたとされる[注釈 3]

注釈

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  1. ^ 当初、大原総一郎は立体音楽堂の建設を提案していたが、運営する会社が見つからず断念。代わりに提案されたのが民芸館の構想であった(大原は日本民藝協会会長や日本民藝館理事長などを務めていた)[6]。立体音楽堂の構想の一部は鉄鋼館にて引き継がれている[7]
  2. ^ 日本万国博覧会のパビリオンで現存している建物は大阪日本民藝館と鉄鋼館のみ。鉄鋼館は2010年3月にEXPO'70パビリオンとしてリニューアルオープンしているため、現在もパビリオンとしてのテーマを保持して運営しているのは大阪日本民藝館のみとなっている[15]。なお、パビリオン以外で現存している建造物としては太陽の塔がある[16]
  3. ^ 日本民芸館の設計当初、合掌造りなど木造の建築も検討されていた記録がある[7]が、結果としてこの案は採用されず、恒久的に利用することを想定した前述のような建築となった[19]

出典

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  1. ^ 大阪日本民芸館 定款” (PDF). 大阪日本民芸館. 2018年5月31日閲覧。
  2. ^ Casa BRUTUS 2003, p. 43.
  3. ^ a b 日本万国博覧会公式記録第1巻 展示 展示館 日本民芸館 - 日本万国博覧会記念協会(1972年)
  4. ^ 入館案内”. 大阪日本民芸館. 2018年5月31日閲覧。
  5. ^ 国立国会図書館「70年の万博と大阪民藝館について1.万博は日本政府がいつ開催を決定したのか。2.その中に民藝館を設置... | レファレンス協同データベース」『レファレンス協同データベース』。2018年6月2日閲覧。
  6. ^ 長井 2018, p. 134-135.
  7. ^ a b 長井 2018, p. 136.
  8. ^ CORPORATION, OBAYASHI. “第三節 夢の実現―未来都市に挑戦 | 第四章 日本万国博覧会 | 第四編 最近十年の大林組 | 大林組八十年史”. www.obayashi.co.jp. 2018年6月2日閲覧。
  9. ^ 長井 2018, p. 131.
  10. ^ 長井 2018, p. 137-138.
  11. ^ 小野絢子「関西における民芸運動の展開」『古事 : 天理大学考古学・民俗学研究室紀要』第19巻、天理大学考古学研究室、2015年3月、16-31頁、CRID 1050001338430384896ISSN 1346-8847NAID 120005858499 
  12. ^ 「(おとなの遠足)大阪日本民芸館 陶芸や染織、暮らしの中の美【大阪】」.『朝日新聞』.2013年10月21日付夕刊、5面。
  13. ^ a b 「<青空主義>兵庫おでかけ情報 レジャー 飾らない日用品の魅力発信 木漆工品や陶磁器など約6千点収蔵 大阪日本民芸館 大阪府吹田市」.『神戸新聞』.2018年5月31日付朝刊、6面。
  14. ^ 高木 2014, p. 140.
  15. ^ 「今なお息づく大阪万博(5)異端と前衛、あせない輝き(ひと脈々)」.『日本経済新聞(大阪)』.2010年4月15日付夕刊、29面。
  16. ^ 「突然の出向、世界広がる(うたた寝)」.『日本経済新聞』.2009年11月5日付夕刊、11面。
  17. ^ 歴史-倉敷国際ホテルと棟方志功- 倉敷国際ホテル【公式】”. www.kurashiki-kokusai-hotel.co.jp. 2018年6月21日閲覧。
  18. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “ホワイト・キューブ(ほわいときゅーぶ)とは - コトバンク”. コトバンク. 2018年7月10日閲覧。
  19. ^ 長井 2018, p. 137.

参考文献

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  • 長井誠「大阪日本民芸館創設の貢献者 ――大原總一郎から弘世現」『民族藝術』第34巻、民族藝術学会、2018年3月30日、130-140頁。 
  • 高木教雄「ART croissant culture 民藝運動に深く関わった陶芸家たちの軌跡を関西の2つの美術館で知る。」『クロワッサン』2014年12月10日号、マガジンハウス、2014年11月25日、140頁。 
  • 「特集★阪神77 そうだ万博跡地でEXPO遺産を探そう!」『Casa BRUTUS』2003年10月号、マガジンハウス、2003年10月1日、42-43頁。 
  • 田中豊太郎編集『EXPO70'日本民藝館』万博日本民芸館出展評議会発行

関連項目

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外部リンク

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