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徳大寺公能

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
徳大寺 公能
徳大寺公能像(『天子摂関御影』より、三の丸尚蔵館蔵)
時代 平安時代後期
生誕 永久3年(1115年
死没 永暦2年8月11日1161年9月2日
別名 大炊御門右大臣
官位 正二位右大臣
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族 徳大寺家
父母 父:徳大寺実能、母:藤原顕隆の娘
兄弟 幸子公能公親公保能慶公雲円実公全公性公重春日局
養兄弟:育子
藤原豪子藤原俊忠の娘)
忻子坊門殿実定多子実全藤原実家実守公衡公慶実宴実任実印実快藤原師長室、藤原通重室、藤原邦綱室、源資賢
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徳大寺 公能(とくだいじ きんよし)は、平安時代後期の公卿歌人左大臣徳大寺実能の長男。官位正二位右大臣大炊御門右大臣と号す。

経歴

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以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

人物像

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後白河天皇践祚すると娘の忻子は中宮となり、後白河帝在位中の保元元年(1156年)に右近衛大将、保元2年(1157年)に権大納言と急速に昇進する。

二条天皇の要請による藤原多子の再入内に対しては、『平家物語』では積極的、『今鏡』では困惑と、態度に違いがある。永暦元年(1160年)7月に正二位右大臣となるが、翌年8月に現職のまま47歳で薨去した。

多芸多才で管弦・歌・朗詠等に優れ、歌に関しては義兄である藤原俊成や、かつての家人・西行と交渉が深い。『詞花和歌集』以下、勅撰集に32首が入集する。

系譜

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脚注

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  1. ^ 待賢門院御給
  2. ^ 待賢門院御給。
  3. ^ 五節舞姫を献上したことによるという。そのため上臈の蔵人頭であった藤原公隆を越えて任ぜられた。
  4. ^ 父右大将・実能が土御門内裏の行事を勤めた賞。
  5. ^ 女御であった従三位多子皇后に立后されたことによる。
  6. ^ 藤原北家勧修寺流出身

参考文献

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  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 保延4年(1138年)に公能が参議となった時以降の記事。
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「徳大寺公能」の項。
  • 角田文衛『待賢門院璋子の生涯 ー 椒庭秘抄』、朝日選書281、朝日新聞社