醍醐忠順
醍醐忠順 | |
時代 | 江戸時代末期 - 明治時代後期 |
生誕 | 文政13年3月17日(1830年4月9日) |
死没 | 1900年(明治33年)7月4日 |
官位 | 正二位、権大納言、侯爵 |
主君 | 仁孝天皇 → 孝明天皇 → 明治天皇 |
氏族 | 醍醐家 |
父母 | 父:醍醐輝弘、母:鷹司辰子(鷹司政熙の娘) |
兄弟 | 忠善、忠順 |
妻 | 家女房 |
子 | 忠告、忠敬、忠貞、忠直、好子、親子、輝子 |
醍醐 忠順(だいご ただおさ)は、江戸時代末期の公卿、廷臣。
概要
[編集]仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の三帝にわたり仕え、官位は正二位権大納言まで昇った。明治時代には政治家となり、特に初代大阪府知事として知られる。父は内大臣醍醐輝弘。母は関白鷹司政熙の娘。子に醍醐忠告、醍醐忠敬、一条忠貞、醍醐忠直、娘に好子(賀陽宮邦憲王妃)、親子(鶴殿忠善妻)がいる。
経歴
[編集]1820年に実子の忠善(忠順の兄にあたる)を喪い、跡継ぎがなかった輝弘であったが、10年後の天保元年(1830年)、その輝弘に待望の第二子である忠順が生まれた。翌天保2年(1831年)には家督を譲られて叙爵。以降清華家当主として速いスピードで累進し、侍従・左近衛権少将・左近衛権中将を経て、天保14年(1843年)に従三位となり、公卿に列する。(幼少期は隠居した輝弘が補佐をしていたものと思われる。)安政2年(1855年)の孝明天皇の遷幸に際しては御櫃中将として天皇に供奉。醍醐家は馬副4名、舎人2名、随身4名、雑色4名、傘1名の計15名を用意した。1859年に父・輝弘が亡くなった後、文久3年(1863年)に権大納言に任じられる。慶応元年(1865年)には踏歌節会内弁をつとめた。
明治新政府では参与をつとめ、慶応4年(明治元年)1月22日に大坂鎮台[1]、27日に大坂裁判所総督に任命された[2]。その後は初代大阪府知事となった。のちに華族に列した。旧清華家として侯爵に叙せられている。帝国議会開設に伴い、1890年(明治23年)2月、貴族院侯爵議員に就任し[3]、死去するまで在任した[3]。
晩年は隠居し、家督は長男・忠告(1848年 - 1896年)が病弱ということで次男・忠敬(1849年 - 1899年)が継いだが、1899年(明治32年)5月23日、この家督相続が原因となり、東京府麹町にある自身の邸宅にて子の忠敬が、甥の格太郎(忠告の子)に射殺され死亡するというスキャンダルが発生した。忠敬の嫡男・忠重はまだ幼少であったため、忠順が再度当主となったが、翌年忠順も亡くなった。墓所は青山霊園1-ロ-8。
家族
[編集]- 父:醍醐輝弘(1791年-1859年)
- 母:鷹司辰子 - 鷹司政熙の娘
- 妻:家女房
- 妾:高島氏(? - 1881年3月9日)
- 生母不明の子女
系譜
[編集]醍醐家
[編集]醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
皇室との関係
[編集]後陽成天皇の男系七世子孫である。後陽成天皇の第九皇子で一条家を継いだ一条昭良の男系後裔。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 『太政類典』第1編第26巻(官規・任免2)「鎮台ヲ大坂及ヒ兵庫ニ置キ醍醐忠順外二名ヲシテ之ヲ督セシム」。
- ^ 『太政類典』第1編第31巻(官規・任免7)「醍醐忠順伊達宗城ヲ大坂裁判所総督及副総督ト為シ且警衛ヲ其藩ニ命ス又岸和田藩ニ大坂市中取締ヲ命ス」。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』19頁。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年(明治17年)7月8日。
参考文献
[編集]- 『太政類典』。国立公文書館デジタルアーカイブにて、2019年3月閲覧。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
侯爵 醍醐家初代 1884年 - 1900年 |
次代 醍醐忠重 |