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高山忠雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高山 忠雄
名前
カタカナ タカヤマ タダオ
ラテン文字 TAKAYAMA Tadao
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1904年6月24日
大日本帝国の旗 大日本帝国東京都
没年月日 (1980-07-01) 1980年7月1日(76歳没)
日本の旗 日本東京都
選手情報
ポジション FW
ユース
19xx-1921 日本の旗 兵庫県立第一神戸中学校
1927-1930 日本の旗 東京帝国大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 神戸一中クラブ
代表歴
1930 日本の旗 日本 2 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

高山 忠雄(たかやま ただお、1904年6月24日 - 1980年7月1日)は、東京都出身のサッカー選手教育者

人物

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東京都生まれ。御影師範附属小時代にサッカーを覚え、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)時代には第1回日本フートボール優勝大会(1918年)に出場した。白洲次郎は神戸一中サッカー部の1年先輩に当たる[1]

1921年に神戸一中を卒業[1]第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、快足のフォワードとして活躍。1927年10月に開催された第4回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第7回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に神戸一中および東京帝大の後輩にあたる若林竹雄らと共に神戸一中クラブのメンバーとして出場して大会優勝に貢献した。

1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出されて2試合に出場、2戦目の中華民国戦で1得点をあげ[2]、大会優勝に貢献した[3]

1931年に大学を卒業した後は外務省文部省浜松工業専門学校(現・静岡大学)教授などを経て、1948年から1965年までの18年間、母校である兵庫県立神戸高校の校長を務めた。戦後復興期の新制高校としての土台作りに尽力する一方でサッカー部の指導にも情熱を注ぎ、自らプレーの模範を示して全国選手権インターハイに何度もチームを導き、大仁邦彌細谷一郎などの日本代表選手を育てた。

1965年4月より武庫川女子大学の教授、1972年より宝塚市教育長を歴任した。1980年7月、東京都で死去した。

所属クラブ

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 2試合 1得点(1930)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1930 2 1 0 0 2 1
通算 2 1 0 0 2 1

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1930年05月25日 日本の旗東京都 明治神宮外苑競技場  フィリピン ○7-2 鈴木重義 極東選手権
2. 1930年05月29日 日本の旗東京都 明治神宮外苑競技場  中華民国 △3-3 極東選手権

得点数

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 大会
1. 1930年05月29日 日本の旗東京都 明治神宮外苑競技場  中華民国 △3-3 極東選手権

脚注

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  1. ^ a b 蹴球史 p.270
  2. ^ 代表TIMELINE 日本サッカー協会
  3. ^ 第9回極東選手権大会 (1930.5.25)”. 日本サッカー協会. 2016年3月8日閲覧。

参考文献

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  • ユーハイム体育・スポーツ振興会『神戸一中蹴球史』2011年3月。 NCID BB05662830 

関連項目

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外部リンク

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