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鮮于輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鮮于 輔(せんう ほ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけてのの軍人、政治家。幽州漁陽郡の人。

事跡

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姓名 鮮于輔
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 幽州漁陽郡
職官 従事→度遼将軍(『後漢書』)→建忠将軍→虎牙将軍→輔国将軍
爵位 都亭侯(『後漢書』)→昌郷亭侯
陣営・所属等 劉虞曹操曹丕
家族・一族 〔不詳〕

公孫瓚への復仇

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最初は劉虞に仕え、その従事となっていたが、初平4年(193年)に劉虞が公孫瓚に殺害されてしまう。鮮于輔は劉虞の仇を討とうと、同僚で従事の斉周や騎都尉の鮮于銀と共に、閻柔烏桓司馬に擁立して、漢族・北方民族合わせて数万の軍勢を集めた。鮮于輔・閻柔らは公孫瓚軍の漁陽太守鄒丹を攻撃し、これを大破して鄒丹以下四千人余りの首級を挙げた。

更に、劉虞を慕っていた烏桓の蘇僕延、袁紹の下に逃れていた劉虞の子劉和、袁紹軍の麴義らと合流し、合計十万の軍勢で公孫瓚を攻撃して幾度か撃破し、建安4年(199年)にこれを滅ぼす上で大きく貢献した。

魏における活躍

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公孫瓚滅亡後、鮮于輔は国人に推戴されてその旧領の統治を行い、公孫瓚の元配下である田豫を長史として抜擢した。後に曹操と袁紹の戦いで北方が混乱すると、田豫が鮮于輔に対し曹操への帰順を説いたため、鮮于輔もこれに従った。曹操は鮮于輔を度遼将軍に任命し都亭侯に封じて、遼西以西の幽州6郡を統治させた(遼西・右北平・広陽・漁陽・涿郡・代郡。上谷郡は護烏桓校尉閻柔)[1]

建安5年(200年)の官渡の戦いの際に、鮮于輔は曹操のもとへ出頭し袁紹との戦いに従軍した。曹操は袁紹軍の潰走を喜び、鮮于輔たち幽州の諸将の協力に感謝した[2]。建安10年(205年)4月、三郡の烏丸が獷平において鮮于輔を攻撃した。8月、曹操が鮮于輔を救援し、烏丸は塞外へ逃走した。建安18年(213年)5月、曹操に魏公になるように荀攸らと勧進を行った。『魏公國勧進奏』には程昱王朗たちよりも上位の十番目に名を連ねている。

黄初元年(220年)に曹丕(文帝)が即位すると虎牙将軍に任命され、黄初5年(224年)頃には輔国将軍となった。曹丕の家臣団が曹丕に対し、後漢からの禅譲を受けるよう勧めた『魏公卿上尊号奏』に、鮮于輔は虎牙将軍・南昌亭侯として曹洪曹真曹休夏侯尚ら曹丕の親族や張郃徐晃張遼といった功臣たちより上位の六番目に名を連ねている[3]

魏では、北方民族との交渉窓口役を務めていたのか、黄初5年頃に鮮卑の大人(酋長)軻比能との折衝に当たっている。その一方、黄初年間には曹丕の命令で、蜀漢劉禅に内密の詔を送って投降を薦めていたとされる。徐邈が禁酒令を破って曹操に処罰されそうになった時は、これを弁護している。

また、小説『三国志演義』には登場しない。

脚注

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  1. ^ 三国志』魏書公孫瓚伝による。同魏書武帝紀によれば、曹操の魏公推戴時には建忠将軍・昌郷亭侯となっている。一方『後漢書』公孫瓚列伝では、帰順時に度遼将軍・都亭侯へ任じられたとある。
  2. ^ 『後漢書』公孫瓚伝
  3. ^ 渡邉義浩 「魏公卿上尊号奏」にみる漢魏革命の正統性 2022-02-04閲覧

参考文献

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  • 後漢書』列伝63公孫瓚伝
  • 三国志』魏書8公孫瓚伝
  • 同魏書1武帝紀
  • 同魏書26田豫伝
  • 同魏書30鮮卑伝
  • 同蜀書3後主伝