人工知能を学ぶのに必要な「3つの学問」とは? 三宅陽一郎と語り合う「基礎がない」学問の可能性

人工知能は年々進化の一途を辿り、生成AIはいまや当たり前のようにビジネスパーソンや学生が利用し、テックに疎い人間もAmazonのAIレコメンドエンジンの恩恵に預かっている世の中へと発展した。
そんな人工知能の現在や未来を考えるうえで、大事になってくるのが“研究者の育成”、つまり歴史がそこまで深くない学問をどのように学ばせるか、また、その前段階としてどの分野を学ぶべきなのかということだ。
そこで話を聞いたのが、デジタルゲームにおける人工知能を研究し、東京大学生産技術研究所特任教授、立教大学大学院人工知能科学研究科特任教授などを兼務している三宅陽一郎氏だ。
三宅氏は上記のような活躍の前に、京都大学で数学を専攻し、大阪大学で物理学を、東京大学で工学をそれぞれ学んでいるほか、京都大学在学中より哲学に傾倒してきた。そんな三宅氏によると、人工知能を学ぶうえで必要なのは「工学」「哲学」「科学」の3つの学問なのだという。
なぜこのジャンルを学ぶことが必要なのか、「ゲームと現実」の二項対立から「ゲーム〜メタバース〜XR〜現実」に進んだ先で登場するAIの発展可能性やそのために必要なものとは。三宅氏との対話を通して知っていこう。
人工知能は他の学問と違って「基礎がない」
ーー三宅さんが昨年執筆された『人工知能のうしろから世界をのぞいてみる』ですが、人工知能に関する本でこのようなエッセイ調のものは新鮮で、面白く読ませていただきました。著書のなかで印象的だったのは、人工知能に必要な“3つの学問”として「工学」「哲学」「科学」を挙げられていたことです。三宅さんは実際に大学で数学・物理学・工学を学ばれ、もともとお好きだった哲学とそれらの接点が生まれる場所として人工知能の研究に足を踏み入れましたが、この3つを必要な学問だと定義した背景を伺いたいです。

三宅陽一郎(以下、三宅):人工知能は他の学問と違って「基礎がない」学問なんです。正確に言えば、どんな学問でも基礎が次第に築かれて行くものですが、その中でも人工知能は「応用と基礎を同時に同じ強さで作っていく」学問です。つまり、知能とは何かということが解明されていないのにも関わらず、知能を作ろうとしているという、非常に矛盾をはらんで立ち上がったという背景があり、そのため「本当にこれは学問なのか」と長きにわたって批判に晒されることも多い分野でした。そのなかで私も作ってみては壊し、作っては壊しを続けてきた、と言えます。知能とは何かを探求するという行為を「サイエンス(科学)」、実際にたぶんこれが知能だとうと作っていく行為を「エンジニアリング(工学)」、そして知能とは何かを考察を続ける「フィロソフィー(哲学)」、この三者が渾然一体となっているのが人工知能です。哲学は特に作ったものを、哲学の力でサイエンスにつないで、サイエンスがエンジニアリングにつないで、というサイクルがあるのです。そういった意味で人工知能はとても変わってはいますが、このような面白い特徴を持った学問です。その点に魅了されて現在に至るまで研究を続けています。

ーー知能とは何かという基礎がないままで、知能を作るというのは、ある意味で「人間が人間を作る」行為に近いのかなと思い、だからこそこの分野は複雑であり、嫌悪感を抱く方が多いのかもしれない、とまさに本を読んで思っていたところでした。
三宅:それはその通りかもしれません。我々人間も人間として生きていますが、人間とはなにかというのをよく分かっているわけではないです。我々には意識もありますが、では意識とは何かと問われて言語化をすることも難しい。ですが「人工知能」と言った途端に「知能」や「意識」は外部化・対象化される。つまり知能の探求が工学になるのです。僕はそれが人工知能のいいところだと思っています。「知能」や「意識」というのはもともと哲学に近いようなものですが、外部化・対象化されることでそれが科学・工学的に作るべき・調べるべきものになるわけです。そうして生まれた知能や意識に関する姿勢こそが、実は人工知能の一番の功績といえるかもしれません。
ーーだとすると「人間の秘密を解き明かす」こと、つまりは神秘に近づくことへの禁忌のような感情が嫌悪感として現れているのかもしれない、とも思いました。
三宅:その指摘は第三次人工知能ブームを端的に表していると言えますね。第三次人工ブームは2010年くらいから現在に至るものですが、前半はシンギュラリティの議論が強く、人間を超えるかどうか、そのために人類はどんな脅威に晒されるか、が主に焦点でした。
ただ、その議論は決着がついてはいないものの、2020年くらいに一度収斂します。「シンギュラリティ」を遠くに見つつ、今度は生成AIやLLMのように人間の大量のデータを人工知能に学ばせる、つまり人間的知能のコピーへと向かっています。それはある意味、人間の能力の間を人工知能が埋めていくことでもあります。人間みたいに喋るし、人間みたいな絵を描いたりもする。それは人間が実際に発話したり、描いたりしたものではないものの、これまで人間が作り出してきた会話や絵画という点と点の間を補間するものです。実際、人工知能がやっていることは、何百次元という高次元で人間の仕事という点の間を補間して生成しているのです。そのように、人間の同族のようなものを作り出していて、そこに対して同族嫌悪のような感情を抱く人が生まれていたり、アイデンティティを揺さぶられたりしている。それが第三次人工知能ブーム後半で生まれていて、まさに今、顕在化していることです。