喜望峰
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座標: 南緯34度21分29秒 東経18度28分19秒 / 南緯34.35806度 東経18.47194度
喜望峰(きぼうほう、アフリカーンス語: Kaap die Goeie Hoop、英語: Cape of Good Hope、ポルトガル語: Cabo da Boa Esperança、オランダ語: Kaap de Goede Hoop、ドイツ語: Kap der Guten Hoffnung、 フランス語: Cap de Bonne-Espérance) は、南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウンにある岬。
名称
[編集]英語名は「Cape of Good Hope」で日本語に直訳すると「希望岬」となる。諸説あるが、Capeが「峰」と訳されたのは誤解によるものと考えられ、Good Hopeが「喜望」と訳された理由は不明である[1]。
位置
[編集]喜望峰はケープタウンから50km南へ延びたケープ半島の突端にある。ケープタウンの南のテーブルマウンテンと同じ珪質砂岩でできている。半島の東はフォールス湾である。しばしばアフリカ大陸最南端と誤解されることがあるが、実際には東南東へ約150km離れているアガラス岬が最南端である。
歴史
[編集]- 紀元前600年頃 - ヘロドトスが『歴史』の中で伝える処に依ると、エジプト第26王朝のファラオ・ネコ2世の命でフェニキア人がアフリカ周航[2]を行なった。フェニキア人らは3年がかりでこれを成し遂げ、南アフリカで天頂の北側に真昼の太陽を見たと報告している。ヘロドトスの時代の(北半球の)世界観では、太陽がこのように運行することは考えられず、この話は信じられないと記している[3]。しかし、現在ではこの話が逆に海洋航路の探検に信憑性を持たせている(フェニキア人のアフリカ大陸周航)。
- 1488年 - ポルトガル人バルトロメウ・ディアスが到達したものの、周辺があまりにも荒れる海域であったため、Cabo destoso、「嵐の岬」)と命名[4]。しかし、この航路の発見は香辛料貿易のルート短縮につながったため、後にポルトガル王ジョアン2世が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と改めさせている[4]。
- 1652年 - オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが植民、後のケープタウンとなる。当時、周辺に居住していた先住民族は「ホッテントット」[5]とオランダ人から呼ばれたが、現在はコイコイ人と呼ぶ。
- 1806年 - ナポレオン戦争中にイギリスが接収し、1814年の英蘭協定でイギリス領となる。
- 1869年 - スエズ運河が開通したことにより、欧州とアジアを結ぶ船舶の通過量が減少する。なお、スエズ運河および周辺で戦争や事故等が発生した場合には、一時的に喜望峰を通過する船舶の量は増加する。一般に喜望峰沖を通るルートはスエズ運河経由より航海期間が1週間程度延びるとされている[6]。
脚注
[編集]- ^ 放送大学茨城学習センター 話題・課題「喜望岬はどうして喜望峰なのか」 元 茨城学習センター所長 朝野洋一
- ^ プント国との貿易のため、ナイル川から紅海への運河建設の試みが失敗し、天然の海洋航路の探検を行なわせた。
- ^ ヘロドトス著『歴史』第4巻42節(ヘロドトス著、松平千秋訳『歴史(中)』岩波文庫、1972年、28ページ。)
- ^ a b 管野浩編 『雑学おもしろ事典』 p.213 日東書院 1991年
- ^ 現在、この呼称は蔑称となっている。
- ^ “フーシ派の商船攻撃でスエズ運河の通過船舶が激減 パナマ運河も…日本の海運大手に影響”. 神戸新聞NEXT (2024年11月25日). 2024年11月26日閲覧。
関連項目
[編集]- ケープサイズ
- フライング・ダッチマン
- ケープオブグッドホープ
- ラーテル - 種小名が Capensis