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植村直己

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うえむら なおみ

植村 直己
生誕 植村 直已
(1941-02-12) 1941年2月12日[1][2]
日本の旗 日本兵庫県城崎郡日高町
(現:豊岡市[2]
失踪 (1984-02-13) 1984年2月13日(43歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国アラスカ州マッキンリー(現:デナリ)山中
現況 行方不明認定死亡
出身校 明治大学農学部
職業 登山家
冒険家
著名な実績 世界初五大陸最高峰登頂[注 1]1970年
世界初犬ぞり単独北極点到達(1978年
世界初マッキンリー(現:デナリ)冬期単独登頂(1984年
身長 162 cm (5 ft 4 in)[3]
体重 60 kg (132 lb)前後[3]
受賞 バラー・イン・スポーツ賞(1978年
国民栄誉賞1984年
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植村 直己(うえむら なおみ、1941年昭和16年〉2月12日[1][2] - 1984年〈昭和59年〉2月13日[注 2][2])は、日本登山家冒険家

兵庫県出身[2]1970年世界最高峰エベレスト日本人で初めて登頂した[注 3][2][6]。同年、世界初の五大陸最高峰登頂者となる[注 4][2]1978年犬ぞり単独行としては世界で初めて北極点に到達した[2]1984年、冬期のマッキンリー(現:デナリ)に世界で初めて単独登頂[2]したが、下山中に消息不明となった[2]。1984年、国民栄誉賞を受賞した[2][7]

生涯

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生い立ち

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1941年2月12日兵庫県城崎郡国府村(現:豊岡市日高町)上郷[注 5]で、父・植村藤治郎と母・梅の7人兄弟の末子として生まれた[注 6][10][9]。実家は農業わら製造[11][12][注 7]

藤治郎の3代前の「植村直助」[14][15]から「直」の字を取り、干支の「」と合わせて「直巳」と名付けられたが[16][17]村役場戸籍担当職員が戸籍簿に誤って「直已」と記入したことから、戸籍名は「直已」として登録された[18][19]。後に、「巳(へび)や已(すでに)より、己(おのれ)の方が格好良い」として、大学時代から「直己」を名乗るようになった[20][18][21][8][注 8]

1947年4月、国府村立府中小学校(現:豊岡市立府中小学校)に入学[2]

1953年4月、国府村立府中中学校(現:豊岡市立日高東中学校)に入学[2][22]

1956年4月、兵庫県立豊岡高等学校に入学した[2][23]。高校1年のとき、春の学校遠足蘇武岳標高1,074m)に登った[24]。特に山には興味はなかった[25]1959年3月、高校卒業[26]

1959年4月、豊岡市の新日本運輸に就職した[27][2][28][注 9]。自ら希望して、就職から1か月後、東京両国支店に転勤となった[29][30]1960年2月、新日本運輸を退職[26]

1960年4月、明治大学農学部農産製造学科に入学[29][31][注 10]山岳部に入部した[34][注 11]。それまで登山の経験も知識もなかったので、5月、新人歓迎合宿の日本アルプス白馬岳の山行で、疲労から一番先に動けなくなり[35]、著しい屈辱を感じた[36][37][注 12][注 13]。その後、独自にトレーニングを重ね[注 14]、登山に没頭し、年120~130日間山行した[38][39]。また、ガストン・レビュファ/著『星と嵐』(近藤等/[40]や、同じ兵庫県出身の加藤文太郎/著『単独行』[41][42]を読み、感銘を受けた。大学3年の冬、黒四ダムを出発し、黒部峡谷の阿曽原峠 - 北仙人尾根 - 剱岳北側の池ノ平 - 剣沢 - 真砂尾根 - 真砂岳 - 地獄谷 - 弥陀ケ原 - 千寿ケ原に達するという5日間の単独山行をした[注 15][40][43][注 16]。大学4年のとき、サブリーダーとなった[39][注 17]。山岳部の同期であり、親友の小林正尚[46]から、米国アラスカ旅行でマッキンリー(現:デナリ)の氷河を歩いてきたとの話を聞き、海外の山に憧憬を募らせるようになった[47][48][49]。なお、学費は長兄の植村修[注 18]が仕送りしていた[52]

大学卒業後に台湾新高山(現:玉山)に登りたい[53][54][注 19]と思い、ビザを申請するが許可されず[注 20]、断念した[56][54]

1964年3月、明治大学農学部卒業[57]。同年4月明治大学法学部に入学[57][注 21]

世界“放浪”の旅

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1964年、23歳のときに、ヨーロッパアルプス氷河を見ようと決心した[59]が資金が足りないため、まず生活水準が高い米国で資金を貯めて[注 22]、その後ヨーロッパに行こうと考え[59]、家族の大反対を押し切って[注 23]5月2日横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、米国ロサンゼルスへ向かった[62][63]。片道の船賃は長兄の植村修が援助してくれた[10][64]が、所持金は、とび職などのアルバイトで貯めた[65]、110ドル(当時・約4万円)と日本円3,500円であった[66]

ロサンゼルス到着[注 24]後、フレズノ近くのパレアの農場で、ぶどう摘みなどの仕事をした[68][69]が、観光ビザしか持っていなかったので、同年9月末に不法就労で移民局に捕まった[70][注 25][66]。強制送還は免れたが、国外退去処分となったため、10月22日ニューヨークから船に乗り、フランスル・アーブルへ向かった[69]

1964年10月末、シャモニーに入った[74]11月10日、ヨーロッパ最高峰のモンブラン標高4,807m[注 26])単独登頂に挑戦した[75]。3日目、ボッソン氷河のヒドゥン・クレバス[注 27]に落ち、クレバスの底までの落下は避けられた[注 28][66]が、怖くなって撤退した[76]

同年の末、スイスとの国境近くのモルジヌで、1960年スコーバレーオリンピックの男子滑降金メダリストであるジャン・ヴュアルネが経営するアボリアス・スキー場に就職した[注 29][69]。ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点とした[78][79][80]

1965年、明治大学山岳部のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)(標高7,646m)登山隊[注 30](登山隊長・高橋進、以下7人[82][注 31])に途中参加するため[注 32]、同年2月19日、ネパールのカトマンズに入った[85][注 33]3月31日ベースキャンプを設営した[88]4月23日シェルパのペンバ・テンジンと共に世界初の登頂を果たした[89][90]。しかし、遠征の計画や準備段階での苦労もしていない自分が登頂し、また、日本新聞に自分だけが大きく掲載されたのを見て、他の隊員に対して申し訳ないという気持ちになり[注 34]、隊長・高橋から一緒に日本に帰国しようと言われたが、それを断った[92][93]

その後、インドのボンベイ(現:ムンバイ)からフランスのマルセイユ行きの貨客船に乗り[94][95]、再びモルジヌに戻るが、黄疸(おうだん)を発症して1か月の入院生活をした[96][注 35][注 36]

1966年7月、モンブラン単独登頂に成功[102][103][注 37]、続いて7月25日マッターホルン(標高4,478m)単独登頂[注 38]に成功した[104][98]

同年9月23日、マルセイユから、ケニアモンバサ行きの船に乗り、アフリカ山行に向かった[105][98][注 39]

同年10月16日ケニア山レナナ峰(標高4,985m)に登頂し[107][注 40][注 41]10月24日アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ(標高5,895m)単独登頂に成功した[111][98][注 42]10月29日、モンバサから船に乗り、モルジヌに戻った[114][98]

1967年8月、グリーンランド単独横断を夢見て[115]、西海岸のヤコブスハウン氷河を半月間、視察した[116][117][118][119][注 43][注 44]

同年12月、モルジヌを去り[121]12月22日スペインバルセロナから南アメリカ行きの船に乗った[122][注 45]1968年1月7日アルゼンチンブエノスアイレスに着いた[124][125]

1968年1月19日アンデス山脈のエル・プラタ(標高6,503m)に登頂[126][121][注 46]2月5日、南アメリカ大陸最高峰のアコンカグア(標高6,960m[注 47])単独登頂に成功した[128][129][121][注 48]2月15日、無名峰(標高5,700m)に初登頂し、母校である明治大学の名前に因んで「明治峰(ピッコ・デ・メイジ)」と命名した[132][121]

その後、ボリビアを経てペルーリマに行き[注 49]、さらにバスと船を乗り継いで、同1968年4月イキトスに入った[135]。ここで、北アメリカ行きの船が出る河口までアマゾン川源流から自力で下ろうと決心した[133][注 50]。同年4月20日、ペルーのユリマグアスを出発[137][138]、単独で6,000km[注 51]の距離を筏(いかだ[注 52]で流れ下り[146][注 53]6月20日ブラジルマカパに到着した[147][138]。同地で、明治大学山岳部の同期であり、親友の小林正尚の交通事故死[注 54]を知り、ショックを受けた[149][150][151]

その後、北アメリカ最高峰のマッキンリー(現:デナリ)(標高6,194m[注 55])登頂を目指して、米国カリフォルニアの農場で2か月間[注 56]働いて山行資金を稼ぎ[154]アラスカに入るが、単独登頂の許可が下りず[注 57]、断念した[154]。同1968年9月14日、サンフォード(標高4,940m)に登頂した[152][156]

1968年10月1日、4年5か月ぶりに日本に帰国した[157][152][158]。日本への航空運賃は、長兄の植村修が負担した[159][158]。植村、27歳。

世界初の五大陸最高峰登頂者となる

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帰国後、地下鉄工事の仕事をした[160][注 58]。この頃の“夢”は、アコンカグアの冬期単独登頂と、筏下りをしたアマゾン川をモーター付きのゴムボートで河口から源流へ遡上することだった[161][162]

1969年日本山岳会が創立65周年事業として、世界最高峰のエベレスト(標高8,848m[注 59])登山隊の派遣を決定し、同年4月、明治大学山岳部の先輩である大塚博美[注 60]に誘われ、これに参加することにした[164]。第1次偵察隊[注 61](隊長:藤田佳宏[注 62]、以下、植村を含めて4人、うち報道1人[167])に参加し、同年4月23日に日本を発ち[168]、同年5月、標高6,300mの南壁基部まで試登し[156]、6月21日、帰国した[169]。続いて、第2次偵察隊(隊長:宮下秀樹、以下、植村を含めて8人。ほか報道4人[170])にも参加し、8月20日、日本を発ち[171]、9月13日、ベースキャンプを設営[172]、10月31日、小西政継と共に南壁の標高8,000m地点まで到達した[173][156]。その後、偵察隊が11月7日にベースキャンプを撤収し[174][175]、帰国した後もネパールのクムジュン(標高3,800m)に滞在し[注 63][注 64]、翌年の本隊のための物資調達やシェルパらの予約をしつつ、高度順化や高所トレーニング[注 65]を行った[184][156]

1970年2月、日本山岳会エベレスト登山隊の本隊(総隊長:松方三郎登攀隊長:大塚博美、以下39人[185])をカトマンズで迎え入れた[185][156]3月23日ベースキャンプに入った[186]。植村は、自己分担金[注 66]を用意できなかった[187]ため、荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが[188]、抜群の体力などが認められ、5月3日松浦輝夫とともに東南稜ルートの第1次アタック隊に指名され[189][190]5月11日午前9時10分、エベレスト登頂に成功した[6][191][192][193]日本人として初めてのことであった[194]。なお、隊として主目標であった南壁からの初登頂は、標高8,050m地点で断念された[186][195]

同1970年7月30日、日本を出発し[196][197]、同日、アラスカに入り[197]、エベレスト登頂の勢いを借りて[注 67]、再びマッキンリー(現:デナリ)に挑戦した[注 68]8月17日軽飛行機でカヒルトナ氷河に入り[202][203]8月19日、ベースキャンプ(標高2,135m)を出発[204][205]8月26日、単独登頂に成功した[206][207]。この時点で、世界初の五大陸最高峰登頂者となった[注 69][208][209]。植村、29歳。

南極大陸横断を夢見て〈エスキモーと共同生活・北極圏12,000km犬ぞり単独行〉

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この頃から、犬ぞり南極大陸を単独で横断することを夢見るようになり[注 70][212][213][214](併せて、後年には、南極大陸最高峰ビンソン・マシフ(標高5,140m[注 71])に単独登頂することも夢見るようになる[215][213])、南極関係の資料を集め始めた[216][217]

1970年12月21日、次に控えているエベレスト国際隊参加のためのトレーニングとして、小西政継らの山学同志会隊に加わり、冬期のグランド・ジョラス北壁に挑戦した[218][注 72]登攀中、ヨーロッパとしては20年ぶり[注 73]の大寒波に襲われ[221]、6人中4人の隊員は凍傷にかかり手足の指を失うことになったが、植村と高久幸雄の2人は無傷で、翌1971年1月1日に完登し、ウォーカー峰(標高4,208m)に到達した[222]

同1971年2月、BBCが主催し、アメリカ人のノーマン・ディレンファース隊長が率いるエベレスト国際隊[注 74]に伊藤礼造[注 75][注 76]と共に参加した。ネパール側南壁を“征服”して[227]植村にとって2度目となるエベレスト登頂を目指すが、4月15日、インド人のハッシュ・バフグナ隊員の遭難[228][注 77]の後、各国からの代表を寄せ集めた国際隊は互いの利害関係が徐々に表面化、隊は“空中分解”した。なおも強硬に[230]先頭を登るイギリス人の隊員2人のために、植村と伊藤の2人だけが酸素ボンベ無しで標高8,230mの第6キャンプまで荷揚げした[231][注 78]が、5月21日、標高8,300m地点で登頂は断念され、失敗に終わった[231][233][234][注 79]。植村、30歳。

同1971年3月、最初の著書である『青春を山に賭けて』(毎日新聞社)を出版した。

同1971年、南極横断距離3,000kmを体感するため、同距離[注 80]となる北海道稚内市から九州鹿児島まで日本列島縦断を徒歩52日間で実現した[注 81][注 82]8月30日宗谷岬を出発[239][注 83][注 84]日本海側を通り、10月20日国鉄(当時)西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)に到着した[238][241]

同1971年12月30日、アルゼンチンのブエノスアイレスから同国の南端のウシュアイアに入った[242]1972年1月5日砕氷船「サンマルティン号」で同地を出航し[243]、同年1月14日アルゼンチンが南極に持つヘネラル・ベルグラーノ基地に入り[244][245]、軍用ヘリコプターで数十km内陸まで飛行するなどの偵察した[246][247][248][249][注 85]。1月18日、同基地を離れた[251][252]。その他、数か所のアルゼンチン南極基地に立ち寄り、2月2日、ウシュアイアに帰港、下船した[253]

一方、南極大陸横断のもう片方のマクマード基地を管轄しているアメリカ国立科学財団からは、「南極条約により個人的探検は認められない」と拒否された[246][254][注 86]

同年2月、アコンカグアの未登攀ルートであった南壁に挑戦する[注 87][257]が、落石が多く、断念した[258][247][注 88]

同年4月11日グリーンランドエスキモー集落で犬ぞりの操縦を教わり、また極地の気候に身体を順化させることを目的として[259]、日本を発った[260]

同年5月、グリーンランド東海岸のアンマサリックを視察した[257]

同年9月11日、グリーンランド最北の村シオラパルクで、エスキモーと共同生活を始めた[注 89][262][247][注 90]。植村は31歳になっていた。

1973年2月4日犬ぞりでグリーンランド3,000km[注 91][注 92]の単独行に出発[265][266][257]、同年4月30日、成功した[267][266][257]

同年6月26日、シオラパルクを去り[268][247]、同年7月に帰国した[257]

この頃、東京都板橋区の住居の近くで、野崎公子と出会った[266][269][270][271][注 94]

1974年3月6日、長兄・植村修、三兄・武夫と共に野崎家に結納に行った[274]

同年3月8日、明治大学山岳部OB組織「炉辺会」のヒマラヤ遠征偵察隊[注 95]の隊長として、ネパールのダウラギリV峰の偵察に出発し[276][275]5月12日、帰国した[276][277]

同年5月18日、33歳のときに、野崎公子と結婚した[278][279][注 96][注 99]

この頃、グリーンランド一周犬ぞり旅行を計画するが、目当てのスポンサーから「探検価値として弱い」と言われ、断念した[284]

同年11月22日、日本を発ち[285][286]12月11日、グリーンランドのヤコブスハウンに入った[287]。同年12月29日北極圏12,000kmの犬ぞり単独行を目指し、グリーンランド西部の村ケケッタを出発した[注 100][289][290]1975年6月12日カナダのケンブリッジベイに到着[291][292]、アンダーソンベイで越夏した[292]。同年12月15日、同地を出発[293][292]1976年5月8日、ゴールであるアラスカのコツビューに到着した[294][295]。1年半の長い旅であった[注 101]。植村、35歳。

その後、ベーリング海峡を渡り、シベリア北極海沿岸からヨーロッパまで犬ぞりで走るという北極海一周を夢見るが、ソ連の許可を得るのが困難であるため断念した[297]

1976年7月31日、ソ連のエルブルス山(標高5,642m)に登頂した[298][299][注 102]

南極大陸横断を夢見て〈北極点到達・グリーンランド縦断犬ぞり単独行〉

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1977年3月21日北極点犬ぞり単独行のための視察にカナダレゾリュートを訪れ、20日間滞在した[300]。また、同年9月にも7日間の旅行でレゾリュートを再訪した[300]

北極点・グリーンランド犬ぞり単独行のために必要な資金がスポンサー3社[注 103]だけでは賄えず、広告代理店[注 104]が加わり、全国的に「一口千円募金」の宣伝もされた[303][302]

1978年1月30日、世界初の犬ぞりによる単独での北極点到達に挑戦する[注 105]ため、日本を出発した[305][306]。同年2月22日、カナダのエルズミア島アラートに入った[307]3月5日、カナダ最北のコロンビア岬[注 106]を出発し[309][308][注 107]、約800km[注 108]の犬ぞり単独行の末、4月29日、北極点到達に成功した[313][314][注 109][注 110][注 111]。なお、植村が北極点に到達する前日の4月28日日本大学北極点遠征隊[注 112](隊長:池田錦重[320])の隊員5人が犬ぞりで日本人として初めて北極点に到達していた[321][322]。植村と日本大学が、同時期に同じ犬ぞりで北極点到達を目指したことから、世間は、“どちらが先に北極点に着くか”と注目した[320][注 113]。また、日本人として初めて『ナショナルジオグラフィック』の表紙を飾った[注 114][325]。植村、37歳。

同年、犬ぞりによる単独でのグリーンランド縦断にも成功した[注 115][注 116]5月12日、「モーリス・ジェサップ岬」を出発[330][310]7月12日、内陸氷床の最高地点(標高3,240m)を経て[331][332]8月22日、グリーンランド南端のヌナタック(岩峰)に到着した[注 117][333][310]。このグリーンランド縦断では、そりヨットのようなを張り、犬の負担を軽減するのに効果を上げた[334][注 118]

同年8月30日、米国ワシントンD.C.スミソニアン博物館で“凱旋”記者会見が行われた[336][注 119]

帰国後、10月から翌年3月までの半年にわたって、北極点とグリーンランドの冒険に要した約2億円の支出[338]のうち約7千万円の赤字[339]を埋めるために、講演[注 120]とイベント参加[注 121]を全国的に数多く行った[342][343][注 122]

同年10月9日、第26回菊池寛賞の受賞が決定された[344]。授賞理由は「犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断…日本青年の成果を内外に高めた二大冒険」に対してである[344]

1979年2月22日イギリスのビクトリア・スポーツ・クラブからスポーツの分野で最も勇気を発揮した人に贈られる「バラー・イン・スポーツ賞」を受賞した[345][346]。授賞理由は、「北極の荒涼とした地での単独の行為などで見せた類(たぐい)まれな勇気」に対してであり、「常に第一歩を行うものであり、孤独の道の発見者であった」ためである[345][347]。授賞式は、同日、イギリスのギルドホールで行われ、55,000ポンド(2,200万円)相当の黄金の月桂冠を頭に被せられた[346][注 123]。植村、38歳。

南極大陸横断を夢見て〈冬期エベレスト・南極〉

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1979年6月6日中華人民共和国政府に招待されて、チベットラサに入った[349][350][351]

同年8月、アメリカ国立科学財団から、「植村の南極での計画にアメリカ合衆国は協力できない」との最終回答があった[352]

同年12月、ネパールのカラタパール(標高5,400m)に入り、約1か月間、冬期エベレストを偵察した[353][354][350][355]

1980年、エベレストの冬期登頂を構想するが、単独での登頂は困難と考え[356]、明治大学山岳部OBを主力とした「日本冬期エベレスト隊」を編成し、植村が隊長となった[350]

同年2月18日、エベレスト冬期初登頂にポーランド隊が成功し[注 124]、植村は先を越された。

同年4月下旬から約3週間、冬期エベレスト山行の準備のため、ネパールに滞在した[358][注 125]

冬期エベレストのトレーニングとして、冬期のアコンカグア(南アメリカ最高峰)に挑戦するため、同年7月11日、日本を発った[359][注 126]8月5日、ベースキャンプに入り[359]8月13日、松田研一、阿久津悦夫と共に、第2登に成功した[350][361]。しかし、計画していた頂上でのビバーク訓練は断念した[362]。植村、39歳。

同年10月30日、エベレスト冬期登頂を目指して、日本を出発した[363]。ポーランド隊に先に冬期登頂されたことにより、植村の隊は登攀以外に学術的な性格も併せ持つこととなった(登攀隊員6人[注 127]、学術5人[注 128]、報道6人)[365][366][注 129]12月1日、ベースキャンプから登攀を開始した[350]。しかし、翌1981年1月12日、標高7,100m地点で登攀隊員の竹中昇が死亡し[注 130]、また悪天候に阻まれ[注 131]、同年1月27日、登頂を断念した[373][350][374]。同年2月14日、帰国した[350]。植村、40歳。

1981年南極大陸3,000km犬ぞり単独行と南極大陸最高峰ビンソン・マシフ単独登頂の計画について、アルゼンチン軍の協力が得られることとなった。ただし、3,000km犬ぞり単独行については、アメリカの協力が得られないため南極大陸横断は不可能となったことから、ビンソン・マシフまでの往復での3,000kmとなった[375]

同年12月テレビ雑誌取材のため、アルゼンチンを訪問し、南極のマランビ基地に7日間滞在した[363]

1982年1月24日、南極3,000km犬ぞり単独行とビンソン・マシフ単独登頂に挑戦するため、日本を出発した[376][377]。同年2月10日アルゼンチン最南端の港であるウシュアイアから砕氷船イリサール」で出港し[378]2月13日南極半島にある同軍のサンマルチン基地に到着した[376][379]。同基地で待機し出発を待つが、3月19日フォークランド紛争が勃発し、同年12月22日、軍が協力を撤回した[注 132]ため断念した[376][382]1983年3月16日、約1年間の南極生活を終えて帰国した[383]。植村、42歳。

冬期マッキンリー単独登頂・最期

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この頃、植村は、南極大陸横断を達成した後の夢として、野外学校を設立する構想を口にするようになる[384][385]

1983年8月、野外学校を開設するための適地を求めて、北海道帯広市を視察した[386][387]。同年10月20日、日本を出発し[388][注 133]10月24日ミネソタ州にある野外学校『アウトワード・バウンド・スクール (OBS)』に参加した[384][390][注 134]1984年1月16日ミネソタを発った[384]

1984年1月18日シカゴアメリカ企業のデュポンの社員と会談した[392][393][394]。植村の南極計画[注 135]への支援についてだと思われる[392][394]

そのついでに[要検証]マッキンリー山冬期単独登頂を目指すため、同年1月21日アラスカアンカレッジに入り[384][396]1月24日タルキートナに入った[396][注 136]1月26日軽飛行機でマッキンリーのカヒルトナ氷河に降り立った[398][399]2月1日ベースキャンプ標高2,200m)から登攀を開始した[400][401]。一部の記者のみがその様子を取材した[注 137]

1984年2月12日午後6時50分[注 138]、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たした[406]。この日は、ちょうど植村の43歳の誕生日であった。しかし、翌2月13日午前11時に行われた軽飛行機[注 139]との、登頂に成功したこと、現在位置が20,000フィート[注 140](6,096m) であることを伝える無線交信[注 141]を最後に連絡が取れなくなり、消息不明となった[410][390]2月15日、軽飛行機[注 142]が標高2,900mの氷河上に、植村がクレバスへの転落防止に使用した竹竿があるのを発見した[411][412]が、ベースキャンプや登山ルートに植村の姿は発見できなかった[411][412]。最後の交信から3日後の2月16日、軽飛行機のパイロット[注 143]が、標高4,900m地点の雪洞で植村と思われる人物が手を振っているのを視認した[413][注 144][注 145]デナリ国立公園管理事務所は、軽飛行機2機、高度5,000mまで飛行できるヘリコプター[注 146]1機で広範囲の捜索を展開した[420][421]2月20日、同公園管理事務所による捜索活動に参加していた2人の登山家[注 147]が標高4,200m地点の雪洞で、植村の日記[注 148]カメラ、フィルムなどを発見した[424]。また、2月25日、標高4,900m地点の雪洞[注 149]でも植村の所有物を発見したが、植村本人は発見できなかった[注 150][424]2月26日、デナリ国立公園管理事務所は、「植村の生存の可能性は100%ない[426]」として捜索を打ち切った[426]。その後、明治大学山岳部OB「炉辺会(ろばたかい)」によって捜索が行われた[427][注 151]が、植村は発見できず、3月6日、標高5,200m地点の雪洞に残された植村の装備を発見する[429][430]に留まった(標高5,200m地点から山頂までの間は捜索できなかった)。3月8日、炉辺会による捜索も打ち切られた[431][432]

植村と最後に無線交信できた2月13日命日となった[注 152]

4月下旬から5月にかけて、明治大学山岳部OB「炉辺会」によって再度、マッキンリー山での捜索が行われた[433][注 153]。前回捜索できなかった標高5,200mから山頂までを中心に捜索が行われ、植村が山頂に立てた「日の丸」の[注 154]を回収した[438][439][440][注 155][注 156]が、植村は発見できなかった[注 157]

なお、植村が消息を絶ったというニュースが報じられたところ、多数の人から植村の捜索費に充ててほしいとの義援金の申し出が明治大学山岳部OB「炉辺会」に寄せられたことから、その受け皿として、1984年3月1日、『植村直己の会』が設立され、明治大学体育課がその受付窓口となった[445][446]。同年12月25日までに、3,116件、約2950万円の義援金が寄せられた[447]

その後

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1984年4月19日国民栄誉賞を受賞した[448][449][390]。功績名は「世界五大陸最高峰登頂などの功[450][注 158]」である。

同年6月11日明治大学名誉博士学位が贈呈された[451]

同年6月16日、『植村直己に別れを告げる会』が東京青山斎場で執り行われた[452][453][454]。祭壇には、笑顔の植村の写真[注 159]と、マッキンリー(現:デナリ山頂で回収された日の丸や愛用のピッケルなどが飾られた[453][454][注 160]

同日、デンマーク政府が、1978年グリーンランド縦断の際の到達点であったヌナタック峰(標高2,540m)[注 161]を、史上初のグリーンランド縦断という植村の業績を後世に残すために「ヌナタック・ウエムラ峰」と改称すると発表した[注 162][456][457][454][注 163]

同年8月、故郷である日高町(現:豊岡市)から名誉町民称号が贈呈された[5][注 164]

同年9月20日、グリーンランド縦断犬ぞり単独行のゴール近くのナルサスワックで、植村の功績を伝えるレリーフの除幕式が行われた[461][注 165]

同年12月アラスカ州裁判所公聴会において、植村直己の死亡が公式に認定された[463]

1985年1月、板橋区役所で植村直己の死亡届が受理された[注 166][4][5]

同1985年8月、植村が構想していた野外学校が、有志によって『植村直己・帯広野外学校』(北海道帯広市)として開校された[464]。植村の妻・公子が名誉校長となった[386]

1992年東京都板橋区に『植村記念財団』(事業主体・板橋区)が設立され、『植村冒険館』が開館した[465][466]

植村直己冒険館

1994年4月10日、故郷である兵庫県豊岡市日高町に、日高町立(現:豊岡市立)の『植村直己冒険館』が開館した[467][466]

1996年、『植村直己冒険賞』(主催・豊岡市)が設けられた。

2011年5月パーク・レンジャーにマッキンリー(現:デナリ)山中で遺体を発見したとの通報があり[注 167]、付近一帯の捜索が行われたが、発見されなかった[468]

主な登山・冒険歴

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参照:「七大陸最高峰#エルブルス山はヨーロッパを代表する山か

人物

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  • 植村家は代々農家で、直己の祖父は損得・金勘定抜きで困っている人を助ける性分だった[要出典]。直己もこの祖父の血を引いており[要検証]登山隊に加わる時にはトップに立ちたいという想いはあっても、自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場に立った[要出典]
  • 高校時代は、友人と共に学校の池のを焼いて食べるなどのいたずらもした[32][469][470]が、成績は平凡で目立たず地味な存在だった[471]。植村の顔を覚えている同級生は少ないくらいであった[469]
  • 明治大学山岳部に入部した当初は、登山の経験や知識がないため、よく転ぶことから、童謡どんぐりころころ』からの連想で「ドングリ」というあだ名(ニックネーム)を付けられ[472][注 173]入部当初は馬鹿にされていた[要検証][要出典]が、同期の連中と肩を並べたいと密かに山行を重ね、その陰の努力が実り、大学4年のときにサブリーダーになった[474][注 174]
  • 1965年、未踏のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)に初登頂した際の隊長・高橋進は、植村について、世界を股にかけて無銭旅行などには思い切った無鉄砲なことを平気でやる反面、先輩から一言でも怒られると、すくんでしまって返事もできないような純情さ、気の弱さを人一倍持っている、と評している[475]
  • 数々の冒険の成功から大胆不敵な面がクローズアップされているが、実際には人一倍臆病な性格で、十分な計画と準備を経て必ず成功するという目算なしには決して実行しなかった[要検証][要出典]
  • 体力以外に取り立てて優れている面があるわけではない自分に対して常に劣等感を抱いており、記者会見などで自分が持ち上げられることを極度に嫌った[要出典]。しかし、妻・公子や知人の多く[要検証]が指摘している[要出典]ように、逆にその劣等感をバネにして数々の冒険を成功させたともいえる[要検証]
  • 人前に立つのは大の苦手で、資金集めの講演会や記者会見で大勢の聴衆を前にして話をする際は、第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければならなかった[要出典]が、口下手ながら自身の体験に基づいた講演は多くの聴衆に感動を与えた[要検証]

冒険スタイル

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単独行に傾倒した以降[いつ?]の植村は、アマゾン川単独筏(いかだ)下り、犬ぞりによる北極点到達単独行、犬ぞりによるグリーンランド縦断単独行など数々の有名な冒険を達成している。

単独行の際の特徴としては、例えば登山における高度順化を目的とはせず、冒険する現地で生活し、現地の人びとの生活に慣れ技術を習得するような“生活順化”をする点が挙げられる。

特に、犬ぞり行に先立つ約5か月間、単身、グリーンランドのエスキモーと共同生活し、衣食住や狩り釣り・犬ぞりの技術などを極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。それらは、犬ぞり行でシロクマに襲われた翌日に同じシロクマと思われる個体を狩りでしとめ、さばいて生肉を食べ極地では貴重なタンパク質を摂取するなどに活かされた。キビヤックは、特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だった[476]

冬山単独行では、1964年11月、モンブランクレバスに落ちた際に、アイゼンと荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくり付けていた[477][注 175]。植村が行方不明となった最後のマッキンリー(現:デナリ)の山行においても、腰に竹竿をくくりつけて登攀して行く姿が見られた[478]

エピソード

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生まれ故郷にある植村直己冒険館
  • 日本人初のエベレスト登頂に成功した際、松浦輝夫の前を歩いていた植村は、頂上まであと10mのところで松浦に道を譲り、松浦を先に頂上に立たせたと、植村は自著に書いている[191][479]。しかし、松浦の証言によると、植村に「どうぞ、先に登ってください」と言われた松浦は、植村と肩を組んで2人同時に頂上に立った[480][193]
  • エベレストに登頂した際、「カメラより山頂の石をみんなに見せた方がいい」と松浦輝夫を説得し、「カメラからテープを抜こうとして、手が滑ってネパール側に落としてしまった」という言い訳を考え、NHKから渡されていた最新型のビデオカメラを山頂に置いてきた。(カメラは、その翌日、日本の第2次登頂隊[注 176]によって発見され、無事に日本に戻ってきた。)
  • エベレストの山頂に、植村がアマゾン川を筏(いかだ)下りしていた頃に日本で交通事故死した、明治大学山岳部同僚・小林正尚の生前の写真を埋めた[482][483]。(一緒に登頂を果たした松浦輝夫も同じく、山頂に写真を埋めている[注 177]。)その後、帰国した植村は、小林の家を訪ねて、仏壇の前で、「お前の代わりにエベレストに登ったよ。頂上の石も持って来たぞ」と言うなり、声をあげて泣き出した[193]
  • 犬ぞりによる北極点到達挑戦の際には、テレビ番組制作を担った毎日放送から8mmカメラを託され、冒険中に自分の犬ぞりが氷原の彼方に走り去る場面を撮影した。周囲には誰もいないことから、その後、彼方から引き返しカメラとフィルムを回収するという貴重な記録映像となった。当時の番組では、その「歩いて戻って来る植村直己」のユーモラスな様子も放送された。

死去に対する反応

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記者「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」
公子「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って(言いたいです)[490][491]
記者「大切な人だと思えば、止める必要があったのではないですか?」
公子「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。(そして、)反対しても出かけていく人でした[492]
  • 行方不明後、標高4,200mの雪洞で発見された日記には、登頂アタック前の最後の日である2月6日日付で、最後に「何が何でもマッキンリー登るぞ[注 179]」と書かれていた[493]。これについて野口健は、「何がなんでも」という言葉は素人が使う言葉であり、その言葉を変えれば「いかなる状況下においても決行せよ」という意味であると解釈している[494]。その上で「自然を相手に、植村さんなら、そんなことするべきではないってよくわかってるはずですよね。だから、その彼がどうしてなのか、と。」と疑問を呈している[494]

墓碑

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著書

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単著

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  • 単行本『青春を山に賭けて』毎日新聞社1971年3月、全国書誌番号:73001400[注 183]

共著

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監訳

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メディア

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関連書籍

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一般書

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雑誌(植村を特集したもの)

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テレビ番組

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映像

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レコード

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植村をモデルにした映像作品

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音楽

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顕彰施設

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植村直己記念スポーツ公園

脚注

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注釈

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  1. ^ 1989年12月に東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランであるという説が一般的であった。
  2. ^ アラスカ州裁判所による死亡認定をもとに、1985年1月、板橋区役所死亡届が受理された[4][5]
  3. ^ 日本山岳会エベレスト登山隊(総隊長:松方三郎、登攀隊長:大塚博美)の一員として、松浦輝夫と共に登頂した。
  4. ^ 1989年12月に東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランであるという説が一般的であった。
  5. ^ 「かみのごう」と読む。
  6. ^ 兄4人、姉2人である[8]。なお、直己のすぐ上の兄は2歳で死去した[9]
  7. ^ 植村の誕生当時は農業のみであり、植村が小学校高学年の頃からわら製造も始めた[13]
  8. ^ 1970年日本人初のエベレスト登頂に成功した際、遠征隊を後援していた『毎日新聞』では「直巳」と表記された[6]
  9. ^ 新日本運輸からの採用通知の1週間後に、関西大学からの合格通知が届いたが、新日本運輸が親戚の紹介先であったことから、進学を諦めて就職した[27][28]
  10. ^ 大学に進学したのは、「東京では学歴がある者が勝つ。東京で勤めるなら、その前に、大学に行かねば」と思ったからである[29][31]。また、同大学の農産製造学科を受験したのは、家の農業のためではなく、志望者が少なくて、入学が比較的容易であったため[32][33]
  11. ^ 山岳部に入れば、緑の見られない都会の雑踏から逃れられ、自然の中で山に登ることもでき、また、テントで同じの飯を食えば、友だちも得られると思ったからである[32]
  12. ^ 植村は、自著に「あれほどみじめなことはなかった」と記している[36]
  13. ^ 後に植村は「あれほどの屈辱を感じたことはない」と親しい友人たちに話している[37]
  14. ^ 毎朝6時に起きて、山道を約9kmランニングした[38]
  15. ^ テント無しの、雪洞での山行であった[40]
  16. ^ 植村は、この山行を、サブリーダーとして人の上に立つための試練と考えた[40]。しかし、これは山岳部に無届でしたものであり、これまでも他に単独山行をしていたことも含めて、部に知れるところとなり叱責された[44]
  17. ^ チーフリーダーは、小林正尚であった[45][39]
  18. ^ 植村修は、1931年5月3日生まれであり[50]、直己とは10歳近く歳が離れている[51]
  19. ^ その理由を、植村は両親に「世の中に植村直己の名を残したい」からと語っている[55]
  20. ^ 貿易の自由化に伴い、観光旅行が自由に認められるようになるのは、1964年になってからである[54]
  21. ^ この再入学は、海外旅行をする上で学生の身分の方が何かと有利ではないかと考えたからだと思われる[58]
  22. ^ パンキュウリを食べて支出を減らそうと考えていた[59]
  23. ^ 実家に帰って、父母に相談したが大反対されたため、近くの円山川の橋で泣いた後、部屋で布団をかぶって3日間断食した[60]。困り果てた父母は、植村の長兄の植村修に判断を一任し、植村修は弟・直己の思いを理解し、渡航を承諾してくれた[61]
  24. ^ ロサンゼルスの外港のサンペドロに入港した[67]
  25. ^ 植村は少しは英語を話せるようになっていたが、それでは本心が伝えられないと思い、名前以外は何を聞かれても、日本語しか話せないと繰り返して言った[71]。そこで、通訳として日系人が呼ばれ、その人に登山の資金を貯めるために働いていることを、「機関銃のようにしゃべりまくった」。その結果、取調官の“温情”措置により、強制送還を免れることができた[72][73]
  26. ^ 山頂が氷に覆われており、気候によって標高が変動する。2007年の計測では4,810.9m。
  27. ^ 雪をかぶって表面からは見えないクレバスである。
  28. ^ 約2m落下したところで、頭を打って気絶したが、アイゼンの爪が氷壁に引っかかり、背中のザックと胸がはさまって、植村いわく“見事に”止まった。
  29. ^ 植村はあまりスキーが上手くなかったが、就職面接の際、ジャン・ヴュアルネの前で「私はグッド・スキーヤーだ」と言い、スキーで滑る真似をしてみせた。そのとき、ヴュアルネは、植村の“嘘”を見抜いていたが、それを指摘もせずに採用してくれた[77]
  30. ^ 正確には、「明治大学ネパールヒマラヤ学術調査隊」である[81]
  31. ^ 登山隊長・高橋進、藤田佳宏、平野真市、尾高剛夫、小林正尚、入沢勝、長尾悌夫である[83]
  32. ^ 学術調査隊の隊長である渡辺操(明治大学山岳部長)が急用のため帰国したため、その代わりということで入山を許可された[84]
  33. ^ イタリアのローマからカトマンズまでは飛行機を利用した。これは、明治大学隊に合流するのに日数がなかったからである[86]。なお、航空運賃は、植村からの要請を受けて、長兄の植村修が負担した[87]
  34. ^ 植村は、中島祥和(明治大学山岳部の2年先輩)への手紙に「泥棒猫みたいなことをしてしまった」と記している[91]
  35. ^ お金を持っていなかった植村の代わりに、ジャン・ヴュアルネが入院費用の支払いをしてくれた[97][98]
  36. ^ この頃、植村は、山行資金を貯めようとしてお金を節約するために、有料の宿舎ではなく、ロープウェイ終点にある板囲いの機械小屋で暮らしていた[99]。また、主食じゃがいもフレンチフライであり、これにパンとスープを添えて食べていた[100][101]
  37. ^ クレバスに落ちないよう、スキーのポールを腰に付けた[103]
  38. ^ イタリア側西稜ルートでの登頂である。
  39. ^ 「荷物を積み入れる船底の広間」の4等船室であり、「部屋というよりは監獄という方がふさわしい」ところだった[106]
  40. ^ 標高4,700m超の山小屋までガイド(兼ポーター)1人が同行した[108]。なお、このガイドは山岳ガイドではなく、ジャングルを通るために雇ったものである[109]
  41. ^ 最高峰のバティアン峰(標高5,199m)の登頂は断念した[107]。この主峰は、岩登りで大変な時間がかかるためであった[110]
  42. ^ キリマンジャロケニア山と並んでアフリカ3山と呼ばれる、ウガンダルーエンゾリ(標高5,110m)にも登りたかったが、手持ちの資金が少なく、断念した[112][113]
  43. ^ 1968年日本大学隊(隊長・池田錦重[120])がグリーンランド横断を達成したため、この夢は消えた[115]
  44. ^ エスキモーと一緒に生活したいと思ったが、言葉が分からなかったため、ソーカトプン村の村はずれでテント生活した[119]
  45. ^ 船上で迎えた1968年1月1日日記に「冒険であろうと、それはわが人生の一つの遊びにすぎない」とし、「定職を持つことこそ、真の人間として生きる価値がある」と記した[123]
  46. ^ 当初は登る予定はなかったが、アルゼンチン軍によるアコンカグアの登山許可がなかなか下りなかったので、自分の実力を見せてやろうと思い、登頂した[127]
  47. ^ 正確には6,960.8m。
  48. ^ 標高4,200mの山小屋を出発してから15時間15分で登頂した[129][130][131]
  49. ^ アンデスの山に登りたかったが、雨期であったため断念した[133][134]
  50. ^ モルジヌを発つ前に植村が書いた覚え書きによると、その時点で、アコンカグア単独登頂とともに、アマゾン川下りも漠然と夢見ていた[136]
  51. ^ 自著『青春を山に賭けて』では、「アマゾン川は(中略)全長六千キロにおよぶ」としか記していない[139]が、自著『冒険』では「全行程、ザッと六〇〇〇キロ」と記している[140]。また、自著『エベレストを越えて』では、「六一〇〇キロの大河の上の一人ぼっちの生活であった」と記している[141]
  52. ^ 家畜輸送に使っていた中古であり、バルサの丸太を組んだもので、全長4m、幅2.5mの大きさであった[142]。植村はこの筏(いかだ)を15円で購入し[142]、「アナ・マリア」と名付けた[143]。これは、南米行の船上で出会い、植村が恋に落ち、結婚を申し込んだ修道女の名前である[144][145]
  53. ^ 食事は、主にバナナタロイモピラニアであった[27]
  54. ^ 山仲間の結婚式に向かう途中、自動車事故で死亡した[148]
  55. ^ 2012年の計測では6,190.4m。
  56. ^ 植村は、自著で「1か月働いた」と記している[152][153]
  57. ^ 当地の国立公園法により4人以下の登山隊の登山は許可されていない[152][155]
  58. ^ 一時は、粉末牛乳の袋詰めの仕事もした[160]
  59. ^ 地殻変動などによって、標高が年々変動している。1999年の計測では8,850m。
  60. ^ 植村より20歳近く年上である[163]
  61. ^ 偵察隊の任務は、続く第2次偵察隊と共に、未踏の南壁に登頂ルートを見つけることであった[165]
  62. ^ 明治大学山岳部の先輩である[166]
  63. ^ この現地での越冬は本部からの指示によるものであり[176]、実質的に大塚博美の考えによるものである[177][178]
  64. ^ 1965年、ゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)に、一緒に初登頂したシェルパのペンバ・テンジン宅に寄宿した[179][180]
  65. ^ 毎日、朝6時半に起き、登山靴を履いて山道を6~7kmマラソンした[181][182][183]
  66. ^ 30万円であった[187]
  67. ^ エベレスト登頂者であれば、特別に入山を許可してくれるのではないかとの“読み”があった[198][199][200]。また、エベレスト登頂後のこの時期であれば、身体が高度順化されているという利点があった[200]
  68. ^ これも正式な許可は出なかったが、公園長の好意により、書類的には、別に入山したアメリカ隊の隊員として入山する形をとることで“許可”された[201]
  69. ^ 1989年12月東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸の最高峰はモンブランであるという説が一般的であった。
  70. ^ もっと大きな氷河が見たいと思ったからである[210][211]
  71. ^ 2004年の計測では標高4,892m。
  72. ^ 隊長・小西政継、星野隆男、高久幸雄、今野和義、堀口勝年、植村の6人のパーティーであった[219]
  73. ^ 自著『エベレストを越えて』では「40年ぶりの大寒波」と記している[220]
  74. ^ 西稜ルートと南壁ルートからの登攀であった[223]。南壁からの登頂は未踏であった。
  75. ^ 1970年のエベレストで同じ隊にいた[224]
  76. ^ 予定では、小西政継が参加するはずであったが、先のグランド・ジョラス北壁で、両足指全てと手の小指1本を切断するという重度の凍傷を負った[225]ため参加できなくなった[226]
  77. ^ ザイルにぶら下がったまま疲労凍死した[229]
  78. ^ 植村は、腹を立てて「オレはやってられないよ」と伊藤に心中をこぼした[232]
  79. ^ 国際隊の解散後、植村だけがバフグナの遺族を弔問した[235]
  80. ^ 列車時刻表の鉄道距離で計算すると2995.9kmになった[236]
  81. ^ 文藝春秋』のカメラマンの安藤幹久(植村とは同年齢)が所々で自動車で同行して、植村の姿を撮影している[237]
  82. ^ を3足履きつぶし、体重が5kg減った[238]
  83. ^ 宗谷岬にある「日本最北端の地」の碑の前で撮影された写真がある[240]
  84. ^ 所持品はパンツ1枚、手帳ビニール製の雨具、タオル1枚、所持金は35,000円であった[238]
  85. ^ 表向きは、見学とその報道が目的ということでアルゼンチン軍の許可を得た[250]
  86. ^ 植村が構想していたのは、南極のロス海に面した米国設営のマクマード基地を出発し、南極点を経て、ロス海とは反対側のウェッデル海のヘネラル・ベルグラ-ノ基地(アルゼンチン)に到着するというコースであった[255]
  87. ^ この挑戦について、植村は、先の南極偵察のために『文藝春秋』から資金援助を受けたにもかかわらず、同社に黙って、アマゾン川筏下りの際の知人に会いに行った旅のことが「心にひっかかり、(中略)南極の偵察の他に、(中略)何かをやってかえる必要を感じた」からだと記している[256]。また「南極を推進するに当り、自分をもっと記録の上から他人に売り込む必要がある」からだとも記している[256]
  88. ^ 植村は、自著に「満足な装備もなく、梱包用のビニールひもをザイルがわりに使用した」と記している[258]
  89. ^ 当初はエスキモー宅に単身寄宿し、後に、廃屋ではあるが、自分専用の“家”に移り住んだ[261]
  90. ^ これに先立つ9月4日シオラパルクを偵察している[263]
  91. ^ シオラパルクからウパナビックまでの間の往復である。
  92. ^ この3,000kmの距離は、南極のロス海から南極点を経てウェッデル海までの最短コースと同じである[264]
  93. ^ 「ご親切にしてくれて、ありがとう」との添え書きがあると公子は語っている[272]
  94. ^ 出会ったのは、植村の行きつけのとんかつ屋「奴(やっこ)」であった[269][266]。植村は、自著の『青春を山に賭けて』に「謹呈 野崎公子様」と書き[注 93]、サインをして、公子に贈った[273][272]
  95. ^ 植村、以下、西村一夫、長谷川良典の3人である[275]
  96. ^ 媒酌人は、明治大学山岳部の先輩であり、日本人初のエベレスト登頂を果たしたときに登攀隊長であった大塚博美の夫妻である[280]。大塚は後に、植村がマッキンリー(現:デナリ)で消息不明となった際、植村捜索の中心として活動し、そのための特別委員会の委員長を務めた。
  97. ^ 植村は「おこがましい」として結婚式を嫌がったが、山岳部同期の廣江研が一晩かかって説得した[281]
  98. ^ 植村は、「そんな晴れがましいことをする資格はない」として披露宴をするつもりも、お金がないからと新婚旅行に行くつもりもなかったが、山岳部の仲間たちが植村を祝福しようと手配した[283]
  99. ^ 結婚式は板橋区の氷川神社[注 97]披露宴赤坂プリンスホテル新婚旅行水上温泉である[282][注 98]
  100. ^ ヤコブスハウンから出発する予定であったが、海が結氷していなかったので、12月20日、船でケケッタに向かった[288]
  101. ^ 越夏期間を除いた実質走行日数は313日である[296]
  102. ^ ソ連のスポーツ担当官も同行した[258]
  103. ^ 文藝春秋毎日新聞毎日放送である[301]
  104. ^ 電通である[302]
  105. ^ 北極点到達に成功すれば、極地探検家としての実力が認められ、南極への道が開けてくるのではないかという期待があったからである[304]
  106. ^ 正確には、コロンビア岬とエドワード岬の間の氷原(北緯83度06分、西経71度02分)である[308]
  107. ^ そり”に「オーロラ」と名付けた[310]。出発時の“そり”の大きさは、長さ4.5m、幅96cm、重さ150kgであったが、4月1日の補給の際に、長さ4.15m、幅96cm、重さ100kg弱の“そり”に交換した[311]
  108. ^ 正確には、直線距離で769kmである。ただし、乱氷群や氷丘脈があるので、まっすぐ進めるわけではない[312]
  109. ^ 無補給ではなく、ツインオッターで4回補給を受けている。また、続くグリーンランド縦断を含めて、サポートチームによる無線人工衛星による位置確認などの最新科学技術の支援を受け、それに伴い巨額の費用を要した。こうした“冒険”のあり方に批判的な意見もあり[315]、「タライの中にボートを浮かべたような」探検だという声もあった[316]
  110. ^ 植村の北極点到達は、気象衛星ニンバス6号」が植村の発信する電波を受信し、アメリカ航空宇宙局(NASA)を経由、スミソニアン研究所によって確認された[317]。なお、位置情報だけでなく、気温気圧のデータも含まれている[318]
  111. ^ 北極点到達を取材するため、植村の近くの氷上に強行着陸したチャーター機の計器は、北緯89度59分90秒を指していた[319]。北極点まで10秒 (184m) の地点であった[319]
  112. ^ スポンサーは、日本テレビ読売新聞である[320]
  113. ^ 堀江謙一も同時期に氷上ヨット(全長9.5m、幅5m、マストの高さ12m、船殻はアルミ合金製)で北極点到達を目指そうとしていた[323]が、帆走滑走)試験の段階で断念した[324]
  114. ^ 1978年9月号である。なお、記事は28ページあり、そのタイトルは『SOLO TO THE POLE』である(表紙には『SOLO TO THE NORTH POLE』と書かれている。)。
  115. ^ 北極点到達だけでなくグリーンランド縦断も行ったのは、その内陸氷床が、南極大陸冠氷とそっくりだったからである[304][326]。なお、その距離は3,000kmである[327][328]
  116. ^ 正確には、グリーンランド最南端には到達していない。最終到達地点は、北緯61度39分、西経44度15分である[329]
  117. ^ グリーンランド最南端ではなく、北緯61度39分、西経44度15分地点であり、ナルサスワックの町から約90km離れている。これより南の氷河はヒドゥン・クレバス(雪をかぶって表面からは見えないクレバス)が多く危険であるため、ここを旅のゴールとした[329]
  118. ^ このアイデアは植村が考えつき、沖縄海洋博記念の単独無寄港太平洋横断ヨットレース(1975年)で完走した小林則子に相談し、実現したものである[335]。なお、マストの高さは6mであった[334]
  119. ^ この地で記者会見を開催したのは、「世界のウエムラ」をアピールするために、電通がセッティングしたものである[337]
  120. ^ 講演1回が50万円であった[340][341]
  121. ^ サイン会1回が30万円であった[340]
  122. ^ 講演スケジュールは、電通が組んだ[339]
  123. ^ 着物姿の妻・公子が同席しており、公子と共に記念写真の撮影に応じた[348]
  124. ^ エベレストの冬期とは、正式には12月1月を指すので、その意味ではポーランド隊は冬期登頂に成功していないと、植村は主張している[357]
  125. ^ 冬期エベレスト山行に必要なシェルパの予約と、冬期初登頂に“成功”したポーランド隊に登頂状況を聞き、装備を見せてもらうためである[358]
  126. ^ 隊は、総員8人であった[360]
  127. ^ 隊長・植村、土肥正毅(明治大学山岳部の2年先輩[364])、菅沢豊蔵(明治大学山岳部の1年後輩[166])、竹中昇、松田研一、三谷統一郎である。
  128. ^ 地質学1人、雪氷2人、高所医学2人である。
  129. ^ 明治大学百周年記念の一つとして、同大学山岳部が1981年春にエベレスト遠征を決定していたことも、隊の編成に影響した[367]。明治大学山岳部の2年先輩である中島祥和は、「本来であれば、母校と合同でエベレスト登頂を目指すのが“常識”であるが、ひとつにまとめるには“障害”があった」と語っている[367]北極点グリーンランド犬ぞり単独行を支援した“グループ”との関係など様々なしがらみ、あらゆる方面への義理や、頼まれると断り切りないジレンマがあったのではないかと推測している[366]
  130. ^ 日本国内では「転落死」と報じられたが[368][369]、竹中昇の死を目前で見た植村によると、滑落はしたものの、その距離は5m以内であった。ベースキャンプに下ろされた遺体は凍結しており、明確な死因は不明である[370][350][371]。このとき、竹中は27歳、早稲田大学の学生であった[372]
  131. ^ 強風のため第4キャンプが設営できなかった[363]
  132. ^ フォークランド紛争自体は、1982年6月14日アルゼンチン軍降伏したことで終結したが、その戦争責任により、植村に協力的だったアルゼンチン軍幹部が入れ替わった影響だと思われる[380]。表向きは、南極大陸気候が不安定であり、物資補給を行う飛行機の離着陸に大きな危険が伴うためという理由であった[381]
  133. ^ 成田空港での見送りは、妻・公子と土肥正毅(明治大学山岳部の2年先輩で、冬期エベレストなどで植村と山行を共にしている。)の2人だけであった[388]。これは、植村がごく限られた人にしか今回の旅行を教えなかったからである[388]。実家にも、アメリカに渡ることすら連絡を入れていなかった[389]
  134. ^ 植村は生徒としての参加を希望したが、学校側が「世界のウエムラ」ということで準指導員(アシスタント・インストラクター)(無報酬)として迎え入れた[391][384]
  135. ^ 植村は、民間機C-130輸送機補給物資を空中投下してもらうことを構想していた[395][394]
  136. ^ この地で植村が宿泊したのは、「ラティチュード62」という名前のロッジ風のホテルである[397]。ホテル名の「62」は、ホテルが北緯62度の位置にあることにちなんでいる[396]
  137. ^ テレビ朝日取材スタッフである[402]。スタッフは、ディレクター大谷映芳早稲田大学山岳部OBK2の西稜ルートからの初登頂者[402])、カメラマン、助手、番組構成者の計4人である[399]が、植村のベースキャンプ入りに同行したのは、大谷、カメラマン、助手の3人である[399]
  138. ^ 登頂時刻については、翌2月13日交信の際に植村がそう発言したことによる。正確には、植村は、「7時10分前にサウスピークの頂上に立ちました」と言い、もう一度聞き直されて「きのうの夜の7時10分前にサウスピークの頂上につきまして」と言った[403][404][405]。なお、続けて「きのうの夜10時頃おり始めましたんですが、ルートがよく分かりませんでビバークいたしました」と言った[403][404][405]。3時間も頂上で何をしていたのかというのも、謎の一つである。
  139. ^ テレビ朝日取材チャーター機である[390]。植村と交信したのは、カメラ助手である[403]
  140. ^ 何度も繰り返して言った、この「20,000フィート」という語が植村の最期の言葉となった[407][408]。なお、植村は、本当は「19,000フィート (5,791m)」と伝えようとしたが、交信がうまくいかず、「20,000フィート」と言い換えたのではないかという推測もある[407]。このとき既に電波状態が悪化しており、これ以降、交信が途絶した[407]
  141. ^ 天候が悪く、植村の姿は視認できなかった[409]
  142. ^ ベースキャンプに植村をピックアップ[要曖昧さ回避]に行った飛行機である[411]パイロットを含めて2人が搭乗していた[411]
  143. ^ 植村が帰途のピックアップを依頼していた飛行機である。乗っていたのはパイロットの1人だけである。
  144. ^ 雪洞から上半身を出して手を振っていたという[414]。なお、手を振るのは元気であることを示し、じっとしているのは救助を要することを示すと、植村と登攀前にサインの取り決めをしていた[415]飛行機は何回か旋回して確認した[414]。しかし、炉辺会による第2次捜索隊の隊長・廣江研が、あらためてパイロットに訊いたところ、「標高4,900m地点でダークグレーの小さな点を見つけた。この小さな点は人間が手を振っているように見えた。この場所でダークグレーの点を見たのはこの時だけである」と証言した[416]
  145. ^ ただし、後日の捜索の結果、最終キャンプとして使った標高5,200m地点の雪洞に大量の装備が残されており、また5,200mの雪洞がルート上見落とされる箇所にないことから、植村は山頂から5,200mの雪洞まで帰り着いていないという推測もある[417][418]
  146. ^ ベル212である[419]
  147. ^ 大谷映芳(植村の山行を取材していたテレビ朝日ディレクター早稲田大学山岳部OBK2の西稜ルートからの初登頂者)と、ジェームズ・ウィックワイヤ(アメリカ人、シアトル在住、K2登頂者、植村の友人。今回の植村の山行の前に植村と面会している[422]。)である[423]
  148. ^ ベースキャンプを出発した日である2月1日から2月6日まで書かれていた。
  149. ^ 植村と思われる人物が手を振っているのが飛行機から視認された所である。
  150. ^ 2人は、標高5,000mまで登って捜索した[425]
  151. ^ 炉辺会の第1次捜索隊は、隊長・橋本清(明治大学山岳部の2年先輩[428])、行動リーダー・松田研一(1980年の冬期アコンカグア、また同年から1981年かけての冬期エベレストで植村と行動を共にしている。)、中西紀夫、高野剛、米山芳樹の5人であった[427]
  152. ^ 植村の故郷である兵庫県豊岡市にある、植村の墓碑には「昭和59年2月16日寂」(原文縦書き漢数字)と刻まれている。昭和59年は1984年。「寂」は、仏教用語死亡の意。
  153. ^ 炉辺会の第2次捜索隊は、隊長・廣江研(明治大学山岳部の同期[434])、副隊長・菅沢豊蔵(明治大学山岳部の1年後輩[166])、他12人であった[435]
  154. ^ 植村のであることは、後日、妻・公子によって確認された[436]。植村の登山前に、その旗を日本から送ったのは公子である[437]
  155. ^ それまでに登頂した外国人の複数の登山隊や山頂付近を飛行した軽飛行機によって、日章旗が山頂にあることは確認されていた[438][416][441]。併せて、星条旗の切れ端も回収された[440]。青色の帽子も回収されたが、これは植村とは無関係とされた[442]
  156. ^ 登頂したのは、長谷川良典、田中淳一、松田研一である[443][440]
  157. ^ 高鮮明の航空写真の撮影も行われたが、植村の姿らしき“点”は見当たらなかった[444]
  158. ^ 表彰状には「あなたは幾多の試練に耐え、世界五大陸の最高峰登頂、犬ぞりによる単独の北極点到達及びグリーンランド縦断など数々の前人未到の偉業をなしとげられ、青少年をはじめ多くの国民に夢と勇気を与えてこられました。よって、ここに国民栄誉賞を贈り、これを表彰します。」と記されている。なお、原文に句読点はない。
  159. ^ 撮影したのは、文藝春秋カメラマンである安藤幹久である。
  160. ^ 供物は一切受け付けなかったが、祭壇に唯一供えられたのは常陸宮家からの供え物である[455]。植村は、華子妃に同行して、富士山穂高に登っている[455]
  161. ^ 双耳岩峰であり、その位置は、北緯61度39分、西経44度15分である[454]
  162. ^ 『植村直己に別れを告げる会』の席上、デンマーク政府の駐日大使により発表された。
  163. ^ 1996年6月26日大谷映芳(マッキンリー(現:デナリ)で植村を最後に取材した。)、安藤幹久(文藝春秋カメラマン)、森田洋(山岳ジャーナリスト)ら8人が初登頂した[458][459][460]
  164. ^ 植村が名誉町民第1号である[5]
  165. ^ 植村の妻・公子は体調不良のため、代わりに植村の長兄の植村修が出席した[461][462]
  166. ^ 前年1984年12月のアラスカ州裁判所による死亡認定を、その根拠とした[4]
  167. ^ 通報者は、登山家コンラッド・アンカーである[468]
  168. ^ 1989年12月に東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰はモンブランであるという説が一般的であった。
  169. ^ 1989年12月東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランであるという説が一般的であった。
  170. ^ モンブランヨーロッパ大陸最高峰とする説もある。
  171. ^ 正確には、グリーンランド最南端には到達していない。最終到達地点は、北緯61度39分、西経44度15分である[329]
  172. ^ 織田信恒漫画正チャンの冒険』で主人公が被っていた帽子である。
  173. ^ 「正チャン帽[注 172]」を被って、しょんぼりしている姿が、ドングリそっくりなので、「ドングリ」というあだ名(ニックネーム)を付けられたという説もある[473]
  174. ^ チーフリーダーは、同期であり、親友の小林正尚である[474][46]
  175. ^ 途中でデポ(デポジットの略。荷物を登路の途中に一時的に置いておくこと。)していった[477]。また、DVD『冒険家・植村直己の世界』(テレビ朝日)にもその姿は映っている。
  176. ^ 平林克敏とシェルパのチョタレイである[481]
  177. ^ 松浦輝夫が埋めたのは、このエベレスト遠征中、第1キャンプで心臓麻痺により死亡した成田潔思[484]の写真である。また、成田の遺髪とお守り、好きだったタバコピース」1箱とマッチも山頂に埋めた[191][483][485]
  178. ^ 会見に同席したのは、大塚博美(明治大学山岳部の先輩であり、植村がエベレストに日本人初登頂したときの登攀隊長である。炉辺会による植村捜索の特別委員会の委員長を務めた。植村の媒酌人でもある。)、中尾正武(明治大学山岳部OB炉辺会理事長[488])、土肥正毅(明治大学山岳部の2年先輩[364])である[489]
  179. ^ 原文は、「何が何でもマッキンレー登るぞ」である。
  180. ^ 墓碑の裏面に、「昭和61年10月吉日 兄 植村修建之」と刻まれている。なお、原文は、縦書き漢数字である。
  181. ^ 昭和59年は1984年原文縦書き漢数字である。
  182. ^ 仏教用語死亡の意である。
  183. ^ 生い立ちから1971年1月のグランド・ジョラス完登までを記した書である。ただし、大学入学までの記述は極めて少ない。
  184. ^ 北極圏ひとり旅』と題する章が追加されている。北極圏12,000km犬ぞり単独行の際に、植村が毎日新聞社に随時、電報電話手紙で旅の様子を知らせてきた。この章は、いわば、植村による「北極通信」(章の冒頭にそう記載されている。)である。
  185. ^ 1979年11月23日東京サンケイホールで行われた聖教文化講演会での植村の講演をテープ起こしした書。併せて、植村が北極点グリーンランド単独行をしている間の妻・公子の日記が収録されている。
  186. ^ 対談相手は、井上靖五月女次男五木寛之王貞治三浦雄一郎新田次郎、大槻彰、西丸震哉今井通子畑正憲、斎藤照子の11人である。
  187. ^ 副題の『植村直己 対談・エッセイ集』の記載はない。
  188. ^ 目次:「第一次偵察隊」、「第二次偵察隊」、「ヒマラヤ越冬」、「日本エベレスト登山隊」、「国際エベレスト登山隊」、「日本冬期エベレスト登山隊」、「エベレストの魅力と南極の夢」
  189. ^ カバーには植村が著者であるかのような表示がされているが、奥付には植村が著者であるという表示はない。著作権者は、「植村公子」であると奥付に記載されている。植村公子は、植村直己の妻である。
  190. ^ 1983年8月から9月にかけて、延べ50時間録音された植村の談話をテープ起こしした書である。
  191. ^ 文庫本には、植村直己が著者であると奥付に記載されている。また、著作権者は植村公子であると併せて記載されている。
  192. ^ 判型は、ほぼ文庫本である(少し大きい:縦16.0cm×横11.0cm)。
  193. ^ 著作権者は「植村公子」であると奥付に記載されている。植村公子は、植村直己の妻である。
  194. ^ 1983年5月8日-5月9日、1泊2日のキャンプで、小学館アウトドア雑誌ビーパル』の取材スタッフによる植村へのインタビューテープ起こしした書である。ちなみに、キャンプしたのは「千曲川の最上流の谷」であると記されている。
  195. ^ 雑誌『ビーパル2013年8月号;通巻395号』の別冊付録として発行された“復刻版”である。分売不可。
  196. ^ 植村が妻・公子に宛てた書簡集である。
  197. ^ 植村直己が著者であるという表示はされていない。
  198. ^ 植村の対談・鼎談集である。対談・鼎談相手は、加藤芳郎石原慎太郎五木寛之王貞治三浦雄一郎堀江謙一池田錦重遠藤周作開高健伊丹十三小西政継藤井康男井上靖榛名由梨早川種三、大貫映子、西堀栄三郎多田雄幸
  199. ^ その他の著者は、荒俣宏池内紀池波正太郎井伏鱒二岡本かの子岡本綺堂小川未明角田光代川端康成川本三郎北杜夫斎藤茂太坂口安吾高村光太郎武田百合子太宰治田辺聖子種村季弘田村隆一田山花袋つげ義春平林たい子松本英子[要曖昧さ回避]村上春樹室生犀星山下清柳美里横尾忠則吉川英治四谷シモンである。杉田淳子、武藤正人 (go passion) /共編。
  200. ^ 植村直己/著『ふるさと城崎温泉』が収録されている(全6ページ)。
  201. ^ 原題は『Expeditions:the experts' way』である。
  202. ^ 明治大学ヒマラヤ登山隊の登山隊長である。
  203. ^ 奥付には発行年月までの記載しかない(日付の記載がない。)。
  204. ^ 『登頂の感激』と題する植村の手記が収録されている。
  205. ^ 会期:1970年8月1日 - 同年8月30日。会場:東京名古屋福岡大阪。主催:社団法人日本山岳会毎日新聞社日本放送協会
  206. ^ パンフレット。24cm×24cm。62ページ。頒価不明。
  207. ^ 著者は、日本エベレスト登山隊の隊員として参加した、NHKエベレスト取材班団長である。なお、NHKの取材班は内藤を含めて4人参加した。
  208. ^ 文庫本には副題は記載されていない。
  209. ^ 植村による“解説”が収録されている(全5ページ)。
  210. ^ 植村直己/著『アマゾン単独イカダ下り:大河と取組んだ六〇日間』が収録されている(全11ページ)。
  211. ^ 著者は、エベレスト国際隊(正式名は「1971年国際ヒマラヤ遠征隊」)に医師としてイギリスから参加した。
  212. ^ 原題は『Doctor on Everest』である。
  213. ^ 星野隆男の妻である。
  214. ^ 『困難を恐れない人だった』と題する、植村による追悼文が収録されている(全1ページ)。
  215. ^ 植村が参加した、1970年末のグランドジョラス北壁完登についての星野隆男による手記が収録されている(全9ページ)。
  216. ^ 1978年春、日本人初の北極点到達を果たした日本大学遠征隊を軸に、同時期に北極点に挑戦した植村直己と堀江謙一についても記述されている。
  217. ^ 1969年日本山岳会エベレスト遠征隊の第1次偵察隊と、翌1970年、同遠征隊の本隊に参加している。
  218. ^ 植村がマッキンリー(現:デナリ)で消息を絶ったくだりを記述した章などが追加されている。
  219. ^ 植村直己との対談が収録されている。
  220. ^ ヒマラヤ初登頂:昭和11年』の節で、植村へのインタビューが収録されている(植村へのインタビュー部分は全3ページ)。なお、この節は、1936年(昭和11年)10月5日、「ナンダ・コート」(標高6,867m)に日本人として初登頂した立教大学隊を紹介したものである(全28ページ)。
  221. ^ 植村直己/著『はてしない雪原を犬と共に』が収録されている。
  222. ^ 非売品である。
  223. ^ 植村による『南極で聞いた登頂と遭難の報』と題する追悼文が収録されている(全2ページ)。文末で「生きていてほしかった。生きて帰って来てほしかった」と記している。
  224. ^ 書籍のどこにも発行年月日の記載がないが、表紙に「緊急出版」と書かれていることから、植村の生存が絶望視された1984年3月頃に発行されたものだと思われる。
  225. ^ 明治大学山岳部の2年先輩である[497]
  226. ^ 1980年6月7日仙台市で行われた植村の講演(明治大学創立百周年記念講演集から転載)(抜粋)が収録されている。
  227. ^ 『植村直己 - 母は勝気で頑固で……私も家の手伝いをしないとばしっと叱られたものです』と題する章が収録されている。
  228. ^ 『植村直己の石:An Explorer's Collection』と題する項が収録されている(全4ページ)。なお、“石”とは、植村が収集した「五大陸最高峰頂上石」(石を収めたケースの裏に植村がそう書いている。)のことである。
  229. ^ 植村直己/著『青春を山に賭けて』が紹介されている。
  230. ^ 「ろばたかい」と読む。
  231. ^ 『単独行 - 植村直己とその妻』と題する章が収録されている。
  232. ^ 書名の“遺書”は昭和58年度(1983年度)の、“冒険”は昭和59年度(1984年度)の講座の綜合テーマである。植村についての講座は、“冒険”のテーマにおいて語られている。
  233. ^ 講演をテープ起こしした書。大塚博美(明治大学先輩であり、植村がエベレスト日本人初登頂したときの登攀隊長である。炉辺会による植村捜索の特別委員会の委員長を務めた。植村の媒酌人でもある。)が植村について語った講演が収録されている(全34ページ)。講演のタイトルは「植村直己と世界の冒険家たち」。
  234. ^ イヌイットと植村直己さん』という節が収録されている(全9ページ)。著者は、植村と面識がある。
  235. ^ 植村直己の講演が収録されている。
  236. ^ 毎日放送プロデューサーである。
  237. ^ 第8回(1986年講談社ノンフィクション賞受賞作品。
  238. ^ 『植村直己 - 未知の大地に挑む男の情熱とロマンとは』と題する文が収録されている。
  239. ^ 明治大学山岳部の同期であり、炉辺会による第2次捜索隊の隊長を務めた[434]
  240. ^ 奥付は『わが友 植村直己』と表示されている。
  241. ^ 1981年6月13日鳥取県米子市で開催された、植村による広江病院五十周年記念講演が収録されている。
  242. ^ 植村の妻・公子による『マッキンリーを見ました』と題する手記が収録されている。表紙の題字は公子の筆による。
  243. ^ 映画植村直己物語』の監督佐藤純彌主演西田敏行倍賞千恵子による『ここまで「植村直己」になれました』と題する座談会が収録されている。また、同映画の全シナリオが収録されている。
  244. ^ 著名人100人の晩飯風景の写真集である。植村直己の項が収録されている。
  245. ^ 『植村直己夫人』と題する節が収録されている。
  246. ^ プライベート・エッセイ集。『植村直己物語』と題する文が収録されている(全3ページ)。
  247. ^ “努力”- 記録に挑んだすべての人に共通することばである。スポーツに、勝負に、冒険に、人生を完全燃焼させた人びとの栄光の歴史をいまここに再現する。植村直己、王貞治ほか200余名を収録。(「BOOK」データベースから引用)
  248. ^ 原題は『Quest for adventure』。
  249. ^ 『たった一人の北極行:植村直己の夢』と題する文が収録されている。
  250. ^ 『植村直己:自然にも人間にも優しさを失わなかった、偉大なる冒険家』の章が収録されている(全30ページ)。
  251. ^ 植村直己/著『ふるさと城崎温泉』が収録されている(全5ページ)。
  252. ^ 植村直己/著『世界の五大巨峰を征服して』(昭和59年)が収録されている(全15ページ)。なお、同書の文庫本には収録されていない。
  253. ^ 『植村直己 - 少年のように輝いていた』と題する文が収録されている。
  254. ^ 副題は記載されていない。
  255. ^ 植村直己/著『グリーンランド単独縦断』(昭和53年)が収録されている(全11ページ)。また、妻・植村公子/著『妻の日記』(昭和53年)が収録されている(全9ページ)。
  256. ^ 1972年、植村がグリーンランドエスキモー村のシオラパルクに入ったその3か月後に入村し、植村と接触している[498]。また、植村が1978年北極点到達を目指した際、同じ北極点到達を目指す日本大学遠征隊に参加した。
  257. ^ 『植村直己さんの消えた山:マッキンリー植村直己捜索隊』と題する章が収録されている(全19ページ、うち本文18ページ)。
  258. ^ 『植村直己マッキンリーに消ゆ』と題する文が収録されている(全5ページ)。(初出:『週刊朝日』、穴吹史士、1984年3月9日。)
  259. ^ 植村直己へのインタビューが収録されている(全18ページ)。(初出:1978年12月号。)
  260. ^ 『残された空白への挑戦:人はなぜ旅をするのか』と題する、植村直己との対談が収録されている(全50ページ)。
  261. ^ 『植村直己の生活用具[極点への挑戦]』と題する章が収録されている(全6ページ)。
  262. ^ 風雪のマッキンリーに消息を絶って7年。植村直己の独創的な五大陸最高峰登頂、極北に架けた夢の全てをカラーで再現した決定版。(「BOOK」データベースから引用)
  263. ^ 『植村直己の母』と題する文が収録されている。
  264. ^ 渾身の力を込めて走った砂漠には、生も死も落ちていた。その瞬間、どちらを掴もうとも自由なのであった…。著者の二度に渡るパリ・ダカ挑戦の全記録と、中畑清ユーリ海老原など、スポーツという物語に寄せる熱い思いを集めたスポーツノンフィクション。(「MARC」データベースから引用)『植村直巳の自画像』と題する文が収録されている(全4ページ)。(初出:『週刊朝日』、1991年3月8日。)なお、タイトルが“直己”ではなく、“直巳”となっているが、著者が意図したものか、単なる誤字なのかは不明である。
  265. ^ 植村直己/著『青春の日々』が収録されている(全14ページ)。なお、この文は、植村直己/著『青春を山に賭けて』から再録されたものである。
  266. ^ 植村直己、今井通子らはなぜこれを選んだのか。本物の冒険家に学ぶ本物のモノ選びの本。(「MARC」データベースから引用)
  267. ^ 『植村直己 : 正直に生きることは、徹底的に遊ぶこと。』と題する節が収録されている(全6ページ)。
  268. ^ 石原裕次郎高倉健ビートたけしから、淀川長治埴谷雄高開高健まで、『話の特集』編集長のインタビュー集。60年代から80年代まで「時代が恋した」大物スターたち18人。(「MARC」データベースから引用)植村直己との対談が収録されている(全6ページ、うち本文4ページ)。植村の節の初出は、『話の特集』、1967年2月号。
  269. ^ 『植村直己・マッキンリーの銀嶺に』と題する節が収録されている。
  270. ^ 『植村直己 -「すいませんです。じつはですね」』と題する章が収録されている。
  271. ^ 植村直己の長兄である。
  272. ^ 文庫本には副題は記載されていない。
  273. ^ 『厳冬のマッキンリーに消えた植村直己』と題する節が収録されている。
  274. ^ 『植村さんのグリーンランド』と題する章が収録されている。
  275. ^ 別タイトルは『The lives of the Japanese great sportsmen in twentieth century』。
  276. ^ 『植村直己とその時代』と題する節が収録されている(全17ページ、うち本文15ページ)。
  277. ^ 『ハングリー精神と覚悟』と題する、植村直己と小西政継との対談が収録されている。
  278. ^ 黒沢明、植村直己、チャールズ・チャップリン宮沢賢治イチロー…。私たちに大きな夢を与え、歴史に確かな足跡を残した古今東西の偉人たち35人の波瀾万丈のストーリーを紹介。(「MARC」データベースから引用)
  279. ^ 義理堅かった「世界の冒険家・植村直己」』と題する節が収録されている。
  280. ^ 『植村直己の母・梅、冒険を支えた母の教え』と題する章が収録されている(全18ページ)。
  281. ^ 日本および海外のさまざまな旅のテーマを取り上げ、関連書籍を紹介する図書目録。日本と世界の紀行・旅行記から自然・冒険をテーマにした図書8396点を、日本百名山パタゴニア・植村直己など各分野・テーマに分類し収録。(「MARC」データベースから引用)
  282. ^ 著者は小学校で教えており、本書は児童に向けた“学級通信”をまとめたものである。
  283. ^ 『伝説となった巨人』と題する章で、植村の「何かに守られていることが危機を呼ぶこともある」と、「初心に『結果』はない」という言葉について記述されている(全14ページ)。
  284. ^ 植村についての記述がある(全6ページ)。
  285. ^ 巻末特別付録として、ドキュメントCD『北極圏「1万2千キロ」犬橇の旅:世紀の大冒険の記録』(植村直己/語り、名古屋章/ナレーションBMGファンハウス/原盤、収録時間45分)が付いている。
  286. ^ 雪洞に残した絶筆:冒険家・植村直己:享年四十三』と題する項が収録されている(全2ページ)。
  287. ^ 茂太さんの元気の素は旺盛な「好奇心」にあった。ファーブルエジソン野口英世、植村直己、コロンブスダ・ヴィンチなど、古今東西の歴史人物から学べることはいっぱいある。その生かし方は、茂太さんが身をもって教えてくれる。(「BOOK」データベースから引用)
  288. ^ 『日本人冒険家 植村直己、単独で北極点到達に成功』と題する節が収録されている(全14ページ)。
  289. ^ 産経新聞に掲載された連載『凛として』の中から12人を選んでまとめた書。『不世出の冒険家・植村直己』と題する章が収録されている。植村について取材執筆したのは中島幸恵(東京社会部)である(奥付に記載)。
  290. ^ ヒマラヤという大自然の中で激しく生きた、明治大学山岳部の若者たち。1970年の植村直己に始まる、33年間の青春群像を描いている。
  291. ^ 沢庵宗彭円山応挙志賀直哉志村喬、植村直己…。時代、活動分野の違いを超えて多士済々を輩出、峻烈な四季の国「但馬」にゆかりの深い50人を紹介する。(「MARC」データベースから引用)
  292. ^ 徳川家康、植村直己、杉原千畝坂本龍馬野茂英雄ほか40人の日本の偉人を、5つの項目にわけて紹介。朝の会や帰りの会、道徳や学級の時間などの話材として最適。偉人に学ぶ「子どもたちへのメッセージ」も収録。(板橋区立図書館のデータベースから引用)
  293. ^ 『“ケンカ・ガク”とよばれたころ:石原慎太郎氏との空しい口論、植村直己氏との悲しいケンカ』と題する章が収録されている(全11ページ)。
  294. ^ 『植村直己:氷河の山マッキンリーに消えた勇者』と題する章が収録されている(全92ページ)。ちなみに、植村のほか、一ノ瀬泰造池田拓鈴木紀夫上温湯隆若山美子多田雄幸星野道夫の7人について記述されている。
  295. ^ 植村直己/述『極限のなかでこそ人間本来のものに戻れる:世界で初めて五大陸の最高峰を制した冒険家』が収録されている(全9ページ)。
  296. ^ 伊藤周左エ門登山家冒険家谷川岳の山樽山荘主人。1989年和泉雅子北極点遠征に協力し、和泉と共に北極点に到達した。)を軸に、植村直己らの冒険家を記述している。
  297. ^ 植村直己の言葉が紹介されている(全2ページ)。
  298. ^ 植村直己の言葉が紹介されている。
  299. ^ 正木徹/著『植村直己へ:本当に直己ちゃんですか』が収録されている(全4ページ)。なお、正木徹は、植村の小中学生時代の同級生であり、「植村直己後援会」の代表を務めた。
  300. ^ 『夢を追い求めよ - 植村直己』で、植村の言葉が紹介されている(全4ページ)。
  301. ^ 植村直己/著『冬期エベレスト遠征隊』が収録されている(全6ページ)。
  302. ^ 別タイトルは『the wise remarks of Explorers』。
  303. ^ 「他人のやったことはやりたくない。人の踏んだ道をまた踏むだけなら、これはもう冒険とはいえません」などの植村の言葉が紹介されている。
  304. ^ 『冒険がないと進歩はない』と題する、新田次郎と植村直己との対談が収録されている(全16ページ)。
  305. ^ 『植村直己:北極圏出発前の猛アプローチ』と題する項が収録されている(全2ページ)。
  306. ^ 古今東西の文芸作品から国内外の骨太ノンフィクションまで、様々な書物を通して探検家はひたすら考える、「なぜ、探検をするのか―」。数多のノンフィクション賞を受賞した探検家の、爆笑にして深遠なエッセイ。(「BOOK」データベースから引用)『超人ウエムラの秘密:植村直己『北極圏一万二千キロ』を読む』が収録されている(全11ページ)。
  307. ^ 植村直己/著『世界の五大巨峰を征服して:世紀の冒険野郎の手記:昭和59年』が収録されている(全18ページ)。
  308. ^ 『植村直己 - 前人未到の華々しい偉業の裏で、献身的なサポートでも信頼を得た「孤高の冒険家」』の節が収録されている。
  309. ^ 植村直己/著『青春を山に賭けて』が紹介されている(全5ページ)。
  310. ^ 『植村直己「そろそろ晴れてもよいのに。天候は私に非情なり」』と題する項が収録されている。
  311. ^ 『植村直己:時代を超えた冒険家』と題する章が収録されている(全48ページ:うち本文45ページ、植村の肖像写真1ページ、植村の経歴1ページ)。
  312. ^ ダーウィンクック船長アムンゼン、植村直己など古今東西の冒険家たちが、旅先での体験や発見を描写したスケッチブックやノートを収録している。
  313. ^ 各界で活躍する著名人たちをの50の名言をわかりやすい解説で紹介(「BOOK」データベースから引用)。植村直己の言葉が紹介されている。
  314. ^ 植村による「南極偵察日記(1972年1月5日 - 同年2月2日)」のほぼ全文が収録されている。
  315. ^ 『40年ぶりに発掘された「単行本未収録連載」を一挙掲載!』と表紙に記載されている。全128ページ。分売不可。
  316. ^ 極限まで同行取材したプロカメラマンと植村さん自身が撮影した映像で綴る、感動のドキュメント。(VHSのパッケージより)
  317. ^ 人気長寿番組「徹子の部屋」が、遂にビデオシリーズ化。昭和の大スター植村直己の出演回を、新たな映像も追加して紹介。(「VIDEO INSIDER JAPAN」データベースから引用)
  318. ^ 1984年にテレビ朝日系で放映された、植村直己の足跡を追うドキュメンタリー番組ビデオ化したものである。
  319. ^ 主として、北極圏12,000km犬ぞり単独行と、最期となったマッキンリー(現:デナリ)の山行(入山前の街での植村の姿や、登攀前のインタビュー等)が収録されている。
  320. ^ ナレーション江守徹である。
  321. ^ 植村を含めて8人の人物が収録されている。ちなみに、植村ほかの7人は、棟方志功宇野重吉ジャイアント馬場三島由紀夫高柳健次郎佐治敬三岡本太郎である。
  322. ^ 『植村直己:夢・冒険・ロマン:没後20年記念特集』(河出書房新社KAWADE夢ムック:文藝別冊〉、2004年9月30日。)の巻末特別付録としてCD化されている。
  323. ^ 帯に記載されている副題は『ロマンの男』となっているバージョンもある。
  324. ^ 大型カラーポスター付、豪華写真集付、解説書付。植村が歌う『雪山讃歌』が収録されている。
  325. ^ 最初の住まいは3畳一間のアパートであった[499][500]。なお、このアパートは現存していない[499]

出典

[編集]
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参考文献(出典の根拠資料)

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関連項目

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外部リンク

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