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杵屋喜三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

杵屋 喜三郎(きねや きさぶろう)は、長唄の三味線方、唄方の名跡

近世初期以来のもので、杵屋六左衛門と並んで長唄宗家の名で、双方をともに代数に数える。喜三郎は六左衛門、杵屋勘五郎の前名であることが多い。元禄15年(1702年)の江戸劇場番付に名は見えるが、6代までは不明の点が多い。

初代

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後の2代目杵屋勘五郎

2代目

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後の4代目杵屋六左衛門

3代目

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4代目

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後の6代目杵屋六左衛門

5代目

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慶安2年?(1649年) - 正徳5年?5月12日1715年6月13日?))

2代目杵屋勘五郎の次男。兄に4代目杵屋六左衛門。作曲に「酒呑童子」「槍踊」がある。

6代目

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(生年不詳 - 享保15年(1730年2月19日))

後年に6代目杵屋六左衛門を襲名したようだが確証する史料は存在しない。「泰平の綱引」を作曲。

7代目

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(生年不詳 - 宝暦2年(1752年2月25日))

6代目の実子。娘・お岸が2代目中村仲蔵の妻。杵屋太十郎が襲名。作曲に「傾城道成寺」「相生獅子」がある。

8代目

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(生年不詳 - 天明7年(1787年9月20日))

7代目の実子。初代杵屋三郎助1768年に8代目喜三郎を襲名。養子の万吉が9代目杵屋六左衛門。作曲に「種蒔三番叟」。

9代目

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12代目杵屋六左衛門の前名。

10代目

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(生年不詳 - 嘉永3年(1850年7月30日))

12代目杵屋六左衛門の養子。初名を田中佐太郎1839年から中村座に出ている。1844年に10代目喜三郎を襲名。夭折したという。

11代目

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5代目杵屋勘五郎の前名。

12代目

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13代目杵屋六左衛門の前名。

13代目

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後の杵屋俊二

14代目

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14代目杵屋六左衛門の前名。

15代目

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1953年の杵屋家家族写真。
前列左から:14代目杵屋六左衛門、喜三郎の息子 宏幸、六左衛門夫人 田鶴
中列左から:15代目杵屋喜三郎、6代目杵屋勘五郎
後列左から:六左衛門の娘 千恵子、喜三郎夫人 伸枝、六左衛門の娘 定子

1923年11月21日 - 2023年5月25日[1]

京都生まれ。14代目六左衛門の長男、本名・杵家安廣(きねや やすひろ)[1]。永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校[2]東京美術学校 (旧制) を卒業。父および山田抄太郎、3代目杵屋六四郎に師事。1930年杵屋吉之丞、1942年喜三郎を襲名[1]。1997年人間国宝、1999年日本芸術院賞受賞。2006年4月旭日小綬章受章[3]長唄協会名誉会長。妹が15代六左衛門を襲名しているため、代数に混乱がある。

弟に2代目寒玉(前名:六世 杵屋勘五郎)がいる。

2023年5月25日22時3分、肺炎のため東京都内の病院で死去。99歳没[1][4]

脚注

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  1. ^ a b c d “長唄唄方の人間国宝、杵屋喜三郎氏死去 99歳”. サンケイスポーツ. 産経デジタル. (2023年6月2日). https://www.sanspo.com/article/20230602-TWWBAOGYSRPCDJB4QTSBXAD6TI/ 2023年6月3日閲覧。 
  2. ^ 「文芸春秋」1994年3月特別号、p.72、「同級生交歓」より。歌舞伎役者市村鶴蔵とは同級で友人であった。
  3. ^ 平成18年春の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都” (PDF). 内閣府. p. 1 (2006年4月29日). 2006年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月24日閲覧。
  4. ^ 杵屋喜三郎さん死去 長唄唄方の人間国宝」『時事ドットコムニュース』2023年6月3日。2023年6月4日閲覧。