コンテンツにスキップ

石川欣一 (ジャーナリスト)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1952年

石川 欣一(いしかわ きんいち、1895年明治28年)3月17日 - 1959年昭和34年)8月4日)は、ジャーナリスト随筆家翻訳家。おもに毎日新聞社に属した。

生涯

[編集]

東京に生れた。父は動物学者石川千代松、母は貞。貞は法学者箕作麟祥の娘である。

1906年(明治39年)に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現・筑波大学附属小学校)、1913年(大正2年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1916年(大正5年)に第二高等学校 (旧制)[1]を卒業。

1918年(大正7年)(23歳)、東京帝国大学英文科から、アメリカプリンストン大学に転じ、1920年卒業して、大阪毎日新聞社の学芸部員となった。留学中、父千代松の恩師、大森貝塚エドワード・S・モースの知遇を得、その縁が、モースの『日本その日その日』の邦訳・出版(1929年)に繋がった。

妻「江い」は、東山千栄子の妹である。

大阪毎日新聞社から東京日日新聞社へ移り、1933年(昭和8年)から1935年まで、ロンドン支局長を勤め、1937年、大阪毎日新聞社文化部長となった。勤務の傍ら、随筆・翻訳の執筆にはげんだ。登山・たばこを好んだことは、おもな文業の項に見る通りである。

1942年(昭和17年)(47歳)、日本軍が占領したフィリピンマニラ新聞社に出向したが、1944年12月、アメリカ軍の反攻上陸をルソン島の山中に避け、1945年9月、新聞報道関係者22人を率いて投降し、年末浦賀に帰った(『比島投降記』(1946年)。

戦後は、毎日新聞社出版局長、サン写真新聞社長などを歴任した。

1952年(57歳)、小津安二郎監督作品『お茶漬の味』に出演した。同年東京ライオンズクラブの初代会長に、翌1953年、日本ライオンズクラブの初代ガバナーになった。その年、ヴァン・ウィック・ブルックス著『アメリカ文学史』の翻訳出版により、日本芸術院賞を受賞した。

1959年(64歳)、ニューヨークのライオンズクラブ世界大会で国際理事に就任したが、帰国後の8月4日、急逝した。

おもな文業

[編集]

各列記の1行目に初版、2行目以降に重版・改版などを記す。

著作

[編集]
  • 『旅から旅へ』、東京日日新聞社大阪毎日新聞社、(1923)
  • 『パイプをくはえて』、東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、(1924)
  • 『煙草とパイプ』、郊外社、(1925)
  • 『むだ話』、春陽堂、(1926)
  • 『山へ入る日』、中央公論社(1929)
  • 『煙草通』、四六書院 通叢書、(1930)
  • 『山・都会・スキー』、四六書院(1931)
  • 『ひとむかし』、人文書院(1936)
  • 『大阪弁』、創元社、(1939)
  • 『樫の芽』、白水社、(1943)
  • 『比島投降記 - ある新聞記者の見た敗戦』、大地書房(1946)
  • 『世界の春』、春光社(1947)
  • 『卅年』、文藝春秋新社、(1948)
  • 『たばこ談義』、毎日新聞社(1949)
  • 『ひなたぼっこ』、桐陰堂書店、(1953)
  • 『可愛い山』、中央公論社(1954)
  • 『山を思う』、山と渓谷社 山渓山岳新書(1955)
  • 『旅・酒・煙草』、朋文堂 旅窓叢書16、(1955)
  • 『タバコ・あれこれ』、ダヴィッド社 (1957)
  • 『チャーチル』、日本書房 現代伝記全集12(1959)

訳業

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 中山善雄・江藤武人編『天は東北山高く 旧制高等学校物語 二高篇』(財界評論社、1966年)p.635

出典

[編集]

いろいろなウェブ情報[出典無効]のほか、

  • 「比島投降記、中公文庫(1995)」巻末の、石川周三:『著者について』(なお石川周三は欣一の三男)
  • 磯田光一他編:新潮日本文学辞典、新潮社(1988) ISBN 4107302083
  • 小田切進編:『日本近代文学大事典 机上版』、講談社(1984) ISBN 9784062009270

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]